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00:00:00京都御所明治初期まで歴代の天皇が住まいとした神聖な場所だ明治6年この京都御所があるイベントの会場として利用された
00:00:23京都博覧会 その前年から始まった日本で最初の博覧会である
00:00:33この時京都府は国内での移動が制限されていた外国人を積極的に京都に誘致
00:00:44そこでの余興として始められたのが宮古踊り 今も続く京都の伝統芸能は
00:00:52博覧会で生まれたのだ
00:01:00さらに外国人向けに京都の名所案内を発行 これは日本人が作った初の英語のガイドブックと言われる
00:01:11こうした取り組みの結果 博覧会は40万人以上の入場者を集め 京都は大いににぎわったという
00:01:23この博覧会ブームを仕掛けたのが
00:01:30山本角馬 元々会津藩の武士だった人物だ
00:01:38彼には17歳年下の妹がいた その名は八重
00:01:46大河ドラマの主人公にもなった新島八重である
00:01:55幕末新政府から朝敵とされた藍津藩
00:02:02八重は自ら銃を持ち戦闘に参加するが 戦いは敗北に終わった
00:02:10その頃兄の角馬は京都で遊兵の身に遭った
00:02:17しかも病により失明していたのである
00:02:23ところがその後山本角馬は波乱万丈の人生をたどる
00:02:32なんと幕末の戦乱で荒廃した 京都の復興に乗り出したのだ
00:02:40角馬の取り組みは 科学研究所や養産場などの設立を始め
00:02:47西陣の織物産業の復興などを秋に渡った
00:02:54同時に小中学校や女学校を次々開校
00:03:00教育の面からも京都の近代化を推し進めたのだ
00:03:09山本角馬とはいかなる人物だったのか 専門家たちが熱く語る
00:03:18多分角馬の視力がはっきりしてる時に
00:03:21最後に見た光景は燃えてる京都なんですよ
00:03:26よそ者による むしろよそ者だからこそできた
00:03:30その災害復興のモデルケースじゃないかと
00:03:33キリスト教はダメだとか
00:03:35男と女には役割があるから 違うようにしなきゃいけないとか
00:03:39いうようなものを全部壊していくわけですよ
00:03:41過激な西洋化っていうのを 試せる場所だったんだと思う
00:03:46なぜ朝敵として戊辰戦争に敗れた 藍津藩の山本角馬が
00:03:52京都の復興に力を注ぐことができたのか
00:03:56その激動の人生を追い 角馬の思いを探る
00:04:01ご視聴ありがとうございました
00:04:03ご視聴ありがとうございました
00:04:17ご視聴ありがとうございました
00:04:19みなさんこんばんは
00:04:42こんばんは
00:04:43歴史のターニングポイントで英雄たちに 迫られた選択
00:04:46その時彼らは何を考え 何に悩んで一つの選択をしたんでしょうか
00:04:50今回の主人公はこちらです
00:04:54明治時代 京都の復興に貢献した 山本角馬です
00:05:01もともと藍津藩の出身で 大河ドラマの主人公にもなった
00:05:05新島八重のお兄さんということなんですけれど
00:05:08磯田さん この山本角馬は どんな人物なんでしょうか
00:05:11山本角馬 福島和合図の出身ながら 京都の知恵袋になった人物ですよね
00:05:17山本角馬はもともと銃だとか大砲だとか 西洋の武器を持って戦いに勝つっていう使命があったんですけど
00:05:27これなかなかすごいところっていうのは 実は西洋の強さっていうのは
00:05:31科学 化学や工学といったような サイエンスの延長にある経済だと見破ったんですよね
00:05:39要するに不国共兵の正体っていうのは その裏側にある分厚い西洋型のサイエンスだと
00:05:47それに角馬は気づいてですね
00:05:50京都の骨格のプログラムを決めることができたっていうのが 角馬だと思うんですけど
00:05:55ではなぜ角馬がそうした役割を京都で果たせたのか 今回はその辺り見ていきたいと思いますね
00:06:03ではまず山本角馬の経歴から人物図を探っていきます
00:06:25登ること40年前 文政11年 山本角馬はこの鶴ヶ城下で生まれた
00:06:32山本家は祖父の頃から 藍津藩の法術指南役を務める家柄だった
00:06:43父から銃の扱いを学んだ角馬
00:06:49豪端で人並み優れた意志の強さがあったという
00:06:53そんな角馬の転機となったのが 江戸への留学である
00:07:04家営三年 23歳で江戸に渡った角馬は ある人物に弟子入りする
00:07:12佐久間昌山 東大随一の閉学者として知られた人物だ
00:07:21西洋法術を積極的に習得した昌山は 自ら大砲まで製造
00:07:29幕末の日本では 法術こそ最先端の西洋技術だった
00:07:40そんな昌山が江戸に開いた西洋法術の塾には 吉田松陰、勝海舟、河井次之助など
00:07:50幕末の英才たちがこぞって入門していた
00:07:56角馬は彼らと共に 銃や大砲の扱いだけでなく
00:08:01西洋の文明や思想を学んだ
00:08:08安政三年 江戸から藍津に戻った角馬は
00:08:13藩主松平片森に 軍を西洋式に改革するよう進言
00:08:20それが 藩主派の藩官を買い
00:08:25一年間の禁則、外出禁止を 命じられてしまう
00:08:34ところが藩内には 改革に賛同する者も多く
00:08:39近親が解けた角馬は 軍事取調べ兼大砲頭取という
00:08:44要職に抜擢された
00:08:48この頃角馬は まだ10代だった妹の八重にも
00:08:53鉄砲の扱いを教えたという
00:08:57その頃 京都は幕末の動乱の 渦中にあった
00:09:07幕府は京都の秩序維持を図るべく
00:09:16文九二年 藍津藩主を 京都守護職に任命
00:09:20片森をはじめ 多くの藍津藩主が上落した
00:09:24だった
00:09:29角馬も現時元年2月 京へ向かう
00:09:3337歳の角馬 合図に妻と幼い娘を 残しての状況だった
00:09:41京都御所の西にある 長徳寺
00:09:48京に入った角馬は ここに 洋楽所を開いた
00:09:54角馬は 藍津藩主だけでなく 他の藩主にも文庫を開き
00:10:00西洋の学問を学ばせたという当時の角馬の考えについて角馬の研究をしている吉海直人さんはこう推測する
00:10:17江戸に行った時に 多分 黒船を見ている
00:10:21あるいは それ以外でも 外国というものを
00:10:25藍津にいた時以上に見ている
00:10:28そうすると すごい危機感を持って
00:10:33このままだと 日本が外国に占領されてしまう
00:10:38これはやっぱり そういう現状を 若い人たちに告げなきゃいけない
00:10:44若い人の育成が恐らく一番早道だっていうふうに考えたと思うんです
00:10:52角馬が上京した源氏元年の7月京都を揺るがす大事件が起こった京都から追放されていた長州藩が挙兵し天皇のいる御所に攻め込んだのだ
00:11:10金門の辺である
00:11:15御所の西に位置する 浜栗御門
00:11:19ここが 金門の辺で最大の激戦地となった
00:11:25門には今も 当時の断魂が生々しく残されている
00:11:31この浜栗御門を守備していたのが 藍津藩の大砲隊と鉄砲隊を率いる角馬だった
00:11:43長州兵からの激しい銃撃を浴びながら 角馬は兵を指揮し応戦
00:11:52敵の御所への侵入を阻んだ
00:12:00さらに長州藩士が御所の南にあった 高塚砂堤から潜入する動きを見せると
00:12:06兵を連れて急行
00:12:11砲弾を撃ち込み 屋敷の兵を粉砕
00:12:15角馬は一番乗りで突入し 敵を撃ち払ったと伝わる
00:12:27幕府側の勝利に終わった金門の辺
00:12:31戦いの功績により角馬は藍津藩の外交担当に抜擢され
00:12:37他の藩との交渉役を担うことになった
00:12:46だが一方で角馬は困難な事態にも直面していた
00:12:54この頃角馬が語った言葉が記録されている
00:13:00遠くを見てもぼんやりとして霧がかかっているようだ
00:13:06角馬は金門の辺の際に目を患い視力が急速に衰えていったのだ
00:13:15風雲急を告げる幕末の京都で角馬はこの窮地をいかにして乗り越えていくのか
00:13:27今回はお二人の専門家にお越しいただいています
00:13:35よろしくお願いいたします
00:13:37まず井上さんはこの山本角馬という人物にどんな印象をお持ちですか
00:13:43幕末の合図の足跡を京都に訪ねる観光客って少なくないんですよ
00:13:49ちょっとしたコースになってるんですよ
00:13:53でもね一番人気は圧倒的に新鮮組でね
00:13:58山本角馬が辿った道を見たいから言って京都に来る観光客はあんまりいらっしゃらないと思う
00:14:05その意味でこの番組の選択渋いところをついてあるなと思います
00:14:14あの角馬といえばねやっぱり同志社という学校の設立者なんですよね
00:14:20新島城がこしらえた学校だと普通言われるんだけれどもでも角馬のサポートがなかったら京都にあの学校はできなかったと思いますし
00:14:34で同志社という名前自体がね山本角馬と新島城が京都にミッションスクールの英学校をつくろうという同志の名役を結んだので同志社になったんですよ
00:14:49角馬のことも忘れないでいただきたいなと思っております
00:14:53岩下さんはこの山本角馬についてどんな印象をお持ちですか
00:14:58あの山本角馬はですねやっぱり目が不自由だったということと
00:15:03それからまあ西洋に留学したことがないという
00:15:07そういう状況の中でよくあれだけのことを成し得たなというふうに思うんですね
00:15:12で私が角馬のベースにあるものは何かっていうふうに思いますのは
00:15:19法術家の家に生まれたというか法術家であるということですね
00:15:24で法術っていうのは数学と物理ですよね
00:15:28で初速度と角度による放物線を描いた弾道計算というものがあって
00:15:35火薬の量とその爆発の大きさなどをやっぱり数字として把握することができる学問なんだなって思いますね
00:15:44ですから法術家っていうのはいろんな事柄を数字で理解する合理的な精神を持っているそうしたこの数学やですねそれから物理に裏付けられた合理的な判断をした人物が角馬だなというふうに思いまして会津藩ではちょっと珍しいのではないかなというふうに思いますね。
00:16:08これ育ち方が結構合図らしからぬところもあるんですよ合図は割と趣旨が強く出るんで型から入ってならぬものはならぬとかやるんですけど角馬は馬洗ってこいって言ったら川の中にそのまま馬を入れて自動で洗車機みたいに洗って出てきたとかですね
00:16:26ものすごいこの辺がね知恵物なんですよだからあの型にとらわれない自由な発想っていうんですかねそれがあるんじゃないですかね
00:16:36あの井上さん江戸江角馬は留学してますけれどこれはどういう影響が角馬にあったと思いますか
00:16:43江戸藩手詰めなんですよねで洋楽に興味を持ち黒船のショックもあっただろうから余計に勉強には気持ちが弾んだと思います
00:16:55でね佐久間正山の塾ってね日本中からそういう志持ってる人が集まってあるんですよ
00:17:04でそこに行くとねどこそこ藩がどうのとか合図がどうとか桑名がどうとかいう
00:17:12あのことをちっぽけなこだわりと思う感受性が芽生えたんじゃないかと思う
00:17:19というのはあのね京都で彼は洋楽塾を開くんだけれどもはいそうですね
00:17:23藍津藩師だけにこだわっていないんですよいろんな藩から門邸が来るんですよむしろ予想の藩の方が多かったぐらいじゃないかな
00:17:31でもこの角馬が京都行った早々に起こる金門の変の時にはじゃあ角馬はどういう立場で関わっていたのかがわからなくなるんですけどその点はどうでしょう
00:17:42やはりあの藍津藩の藩師ですからそうしますとやっぱり藍津の歴史と伝統将軍権に弓引くものは我が子孫に張らずというですねこういう考え方がやっぱり藩師である角馬の中にも抜き難く存在するというふうに思います
00:18:01一方でやっぱり西洋を学ぶ中でやはりその合図の中だけでいろいろ物事を考えていくのはちょっとどうなのかなとやっぱりその西洋に負けない国づくりそれから最新の武器によって国自体を強くしていかなきゃいけない日本という国を強くしていかなくては西洋と対峙できないというところにまで行ったんじゃないかなというふうに思いますけど
00:18:26その西洋式が役に立つんだ西洋式の有用性というのを角馬は藩内で訴えるんですけど激烈にあの藍津藩の西洋軍隊化を訴えると禁止にさせられて1年間ねあんなことされてたでしょ
00:18:42で角馬にとってみると藍津藩の中っていうのは西洋化の速度が遅いと思ってあの角馬の角の字僕は冷めてると読んでるんですよ僕実は
00:18:52本人だけが俺だけが藍津藩の中で冷めてる走る馬だっていうそういうイメージです私にとっては冷めた馬だから他の藍津藩氏は寝てるぐらいの気持ちがあったかもしれないと思ってねいや実際その頭コチコチの上の方の人も少しはいいさあこの後幕末の動乱は激化し戊心戦争に突入していきます
00:19:22の別れ目となったのが
00:19:28慶応4年1月に起こった戸場伏見の戦いだ
00:19:36幕府側として参戦した藍津藩は最新の洋式銃を装備する薩摩長州に苦戦
00:19:44激闘の末多くの藍津藩氏が命を失った
00:19:58京都の西雲院という寺にある藍津墓地
00:20:02京都守護職を務めた松平片盛の像の横に大きな石碑が建てられている
00:20:11戸場伏見の戦いでですね
00:20:13亡くなられた方々の慰霊碑という形になるわけなんですけれども
00:20:15遺体がねその戸場街道のところにずっとこう散乱していたのをね
00:20:17見るに忍びないということで
00:20:19近くのお寺とかいろんなとこ行って
00:20:21ダビに伏して
00:20:23115名
00:20:25こちらの方の慰霊碑に合使されているわけでございます
00:20:27こちらの方の慰霊碑に合使されているわけでございます
00:20:31近くのお寺とかいろんなとこ行って
00:20:33ダビに伏して
00:20:35115名
00:20:37こちらの方の慰霊碑に合使されているわけでございます
00:20:39立方の慰霊碑に刻まれた戦死者の名前
00:20:44その中に山本三郎という名がある
00:20:49これは� ethnomの弟である
00:20:53戦場で銃弾を受け
00:20:5521歳の若さで亡くなった
00:20:57戸場で縦断を受け
00:20:5921歳の若さで亡くなった
00:21:03イオ defence
00:21:04戸場伏見の戦いの後、新政府は藍津藩の討伐のため軍を派遣。
00:21:17だが角間が藍津に向かうことはできなかった。
00:21:27戸場伏見の戦いが始まって間もなく薩摩兵に捕らえられ、京都の薩摩藩邸に遊兵されていたのだ。
00:21:40収容されたのは薩摩藩が稽古場として使用していた広間。
00:21:46その一角の畳敷きの小さなスペースが角間が遊兵生活を送っていた空間である。
00:21:57角間は自問した。
00:22:00新政府の藍津信仰を止めるため自分にできることはないか。
00:22:10そして慶応4年3月、薩摩藩宛に探願書をまとめた。
00:22:19角間は言う。
00:22:21藍津は国家のために動いただけだと。
00:22:26その思いは赤松小三郎の仲介で薩摩藩の首脳部に伝えていたと記す。
00:22:37赤松小三郎は新州上田藩出身の兵学者。
00:22:43京都で薩摩藩の軍事顧問を務め、角間とも親交があった人物である。
00:22:52赤松は保身戦争の以前から幕府と薩摩の内戦を回避する爆殺一羽を訴えていた。
00:23:04だがそうした行動により、薩摩藩にスパイの疑いをかけられ、暗殺されてしまう。
00:23:15角間もいつ処刑されてもおかしくはなかった。
00:23:19そんな中、角間は次なる行動に出る。
00:23:26それは、自らが考える理想の国家像を記すこと。
00:23:32視力を失っていた角間は、同じく遊兵されていた藍津藩氏に口述筆記をさせた。
00:23:43何度も遂行を重ね完成したのが、この官権と題された意見書である。
00:23:53実はこの資料、吉海さんが近年、古書店で偶然入手したもの。
00:24:02同志社大学にももう1冊あるんですけれども、そちらは憲白書という名前になっております。
00:24:10恐らく憲白書というのは役所に届けるスタイルでこちらは官権という形で恐らく角間の手元にとどまっていた写本の流れだと思います。
00:24:23記されているのは三権分立や二院制といった新たな政治システムの提案角間の提言はさらに多岐にわたる例えば笑っちゃうんですけど米の消費が増えるから米でお酒を作らないで麦とか芋で作れ。
00:24:52えっそんなこと言うかと思うくらい本当にあの美に入り鞘に入りここまで考えるのかっていうところまでこの官権には記されているんです。
00:25:02各間の官権には貨幣や食事髪型に至るまで23もの項目について具体的な方策が記されている。
00:25:18その中でも吉海さんが注目するのが女学という項目。
00:25:30ここで角間は女子にも男子と同じ教育をすべきと記す。
00:25:39賢い女性、賢い母が賢い子どもを育てる。これが一番いい方法だから賢い女性を育てれば自ら日本賢くなるっていう。これは多分他の人書いてないと思います。
00:25:56男女格差の大きいこの時代、平等な教育を訴える角間の考えは世界的に見ても極めて斬新なものだった。
00:26:10この官権が薩摩藩に提出されると、薩摩藩家老の小松立脇や西郷隆盛は角間の見識の深さに慶福したという。
00:26:27しかし角間の努力にもかかわらず、結局合図を救うことはできなかった。
00:26:37慶応4年8月、新政府軍が藍津城下に突入。老城戦が始まった。
00:26:48当時24歳だった八重もスペンサー銃を持ち参戦。
00:26:54見事な銃の扱いによって死死粉塵の活躍をする。
00:26:58だが八重の奮戦むなしく、9月17日には角間の父ボンパチも戦死した。
00:27:11そして9月22日、藍津藩は降伏。
00:27:24藍津の地は没収され、角間の残された家族は米沢へと移った。
00:27:30京都でとらわれの中合図の敗北を知った角間この時41歳その衝撃はイカばかりのものであっただろうか?
00:27:47鳥羽伏見の戦いで遊兵された角間は獄中で官権という意見書を書き上げます岩下さんこの官権についてはどのように考えますか?
00:28:00このころの日本の枠組みを考える人は結構いまして龍馬ですとかあるいは赤松小三郎ですとか結構執筆してますけど龍馬が記したのは項目だけのですねかなり大雑把なものしかしそれと比べると角間は非常に細かいところまできちんと文字にしてますよね。
00:28:20例えば粗食では体が持たないからやっぱりきちんと肉を食べましょうとか肉を食べるのはやっぱり体が丈夫で精神が充実した結果になるのでそれが西洋人の強い理由なんだっていうところをちゃんと言ってますよね。
00:28:41具体的なんですよもう藍寺が学校って言ったらただ学校を作るじゃないんですよ教育を盛んにするっていう一般論は誰でもするんですけどお寺を学校に変えるんだって言い出すそれで産業を起こすためのこれ布告が大事だっていう人は誰でもいいんですよ鉄を作りましょうっていうんですよなるほどここがやっぱりすごいところででこれがね薩摩の人に受けるんです薩摩が一番反応するんです具体論を言うと
00:29:11彼らは戦士なんでもう具体的なきちっとした方法を言われると大喜んだから薩摩は実は身柄を捕獲した時に最初から占めたと洋楽舎一匹捕獲っていう感じでむちゃくちゃ優遇してますだから捕まった最初に酒一生瓶くれって言ったらすぐ出てきました
00:29:30これで寒いんだけどって言ったらはいどうぞって言ってあったかい布団が提供されます幽閉されていたとはいえそうなんですねもう自由に歩き回らせてますんであのねそのことの延長なんだと思うんだけど彼はまあ軽い緩い幽閉状態にあるわけです
00:29:51考える時間がたっぷりあるんですよ考える時間だけじゃない自分の考えをまとめて書き留める具体的なところまで書き留める時間を与えられてるんですよ
00:30:05目が悪くなって摩に遊兵されて好きな本を与えられ読んでもらえるこの状態で時間があったからあれだけの著作ができたんですそうですよねあとねどんどん目も悪くなってしまうから聴覚で暮らすとすると確実に音声化言語化しますよね音声化言語化するってことは試作するってことですよね
00:30:33これで伝えるってことですよ要するに視覚が見えるからお互い同士表情で分かるだろうみたいなのではなくきちっと怠けず言語化が進んだってことはやっぱり山本角間思想あれだけの頭脳の思想が外へ分かるように漏れ出すというあとはいいのがね口述筆記になるので筆記する侍の分かるレベルに合わせて喋るんですよ
00:31:02しばしばすごく頭のいい人は難しい漢文体でとんでもないこともう分かりにくいこと書くんですけどお向かいに座ってる武士誰でも分かるように喋ろうとするのでそれで具体例が増えたのかもしれないねそれもあると思うそれもきっとあるね分かりやすくなっているあれはどうですか女学女性にも教育をっていう女子にも男子と同等の教育をっていうこと?
00:31:32女子の方が稼げそうな産業ってやっぱり女性がやるものが多いわけですお茶を選ぶとかあと糸を作るとか旗織りをするとかだってお母さんが旗織ってくれたからこの実は山本家も食べられてそのお金で本とかが買える状況になってたのでそうなんですねお母さん自体がかなり賢婦人だったんだと思う
00:32:02母は賢くあれ?って思ってはったんじゃないかなそうかそれがそういう考え方になったんですねえっとそれとね女子に勉強をっていうのはねこれ口先だけじゃないんですよあの妹の八重さんが法術をお兄ちゃんから教わってるわけですよはいそうですね隠間の教えを受けた八重さんはほんまに戦争に鉄砲持って出かけはるわけじゃないかそうなんですよね
00:32:32合図兵であれは男の身なりになってあの溶け込むんですよね実践したんですね実践したんですよねでも実践されたということが私にはやや切なく思えるんですけれども
00:32:45それはどういうことですか?いや女の人の社会実践が戦争で花咲くっていうのがねもうちょっとええとこうというような思いはあるんですが
00:32:57でも要するに戦争をすることは確かに悪いことですけどね国家を守る義務を果たすっていうことが政治的な権限を持つことそれが男も女も平等だっていう考え方がこれ新しいと思うんですよね
00:33:16さあそんな山本角馬に選択の時が訪れますその選択とは?
00:33:23激しい牢状戦の末合図は落上
00:33:30一方で京都薩摩判定に囚われのみの山本角馬は必死の思いで官権をかき上げた
00:33:44その無理がたたったのか体調を悪化させた区間は病院に身柄を移されたそこに面会に訪れた人物がいる岩倉智美明治政府の最高指導者の一人である
00:34:10薩摩藩に提出された官権を読んだ岩倉は角馬にある提案を持ちかけたといわれる新政府に使えないか岩倉は角馬の能力が新しい国づくりに必要と考えたのだ
00:34:33藍津藩を滅ぼした旧敵からの思わぬ誘い角馬は選択を迫られた
00:34:41その心の内に分け入ってみよう
00:34:45新政府は私の考える新しい国の姿を認めている
00:34:58ここは東京に向かい新政府に使えるべきか
00:35:05かつての仲間たちも新政府に誘われていると聞く
00:35:13我が理想を実現するには東京に行き政府の中から改革をすべきである
00:35:25母親戦争中に江戸は東京と改められ明治になり事実上の首都が東京に移された
00:35:37新たに発足した明治政府は旧幕府側の優秀な人材を積極的に投与
00:35:47角馬も明治政府から注目されていたことを示す新たな発見が2019年にあった
00:35:59防衛省の研究所に保管されている新政府への意見書をまとめた資料
00:36:08その中から角馬が記した官権の写本が見つかったのだ
00:36:15角馬が描いた新しい国家像を政府はしっかりと保管していたのである
00:36:27だが角馬の能力を求めたのは政府だけではなかった
00:36:37明治2年に釈放された角馬は京都府からも誘いを受けたのだ
00:36:48京都府が政府に提出した文書にこうある
00:36:54海外のことに詳しい人材がいないので角馬を雇い京都の開花官業の助けにしたい
00:37:05開花官業とはどういうことか
00:37:10さかのぼること5年前角馬自身が最前線で戦った金門の変に伴い京都で大火災が発生2万5,000戸以上の家屋が焼失し京都の中心部は焼け野原となった
00:37:29更に明治になり天皇が東京に移ったことで公家や豪商など多くの人々も京都を離れていった人口が3分の2に減少した京都は先行きの見えない危機的状況にあったのだ
00:37:54ここは京都にとどまり復興に力を貸すべきではないか
00:38:05我が目には炎上する京都の姿が焼き付いている
00:38:12私の手で京都を復興させそこで理想の国づくりをすれば良いではないか
00:38:20東京へ向かうか京都にとどまるか角馬に選択の時が訪れた東京の新政府からも京都からもその能力を求められた山本角馬明治になった日本で角馬はどうするのか選択の時が来ました東京に向かい新政府のもとで働きました。
00:38:38それとも京都にとどまり町の復興を行うかお二人が角馬の立場ならどちらを選択するでしょうか井上さんどちらを選択しますか?
00:38:59私は悩んだ末京都にとどまるを選びますはいなぜでしょうかあのちょっとちっぽけな話をしますごめんなさいあの角馬は釈放されてからしばしばあの鴨川沿いのお茶屋さんにも行かはるようになったんですよでそこでね働いてはる女の人にまあ好かれたのかな割ない仲になって
00:39:29彼女を内縁の妻にするんですよこの女の人がね目の不自由な角馬のためにいろいろサポートしてくれるわけです
00:39:39ところが京都でなら彼女はサポートできるんだけど東京の地理はわからないわけですよ
00:39:47で東京にはあの一番頼りになるその女の人を連れて行けない
00:39:53じゃあやっぱり京都にとどまろう私はね彼目が見えたら東京へ行ったと思うそういう野心は持ってたと思うけれどもあの状態だからもうこの街が自分を求めてくれるのならこの街であの自分の花を咲かそうみたいな気になったんじゃないかと考えています
00:40:14その支えてくれる女性がいたからそうです私ロマンチックでしょ結構岩下さんはどちらを選びますかいや井上先生のそういうお話を聞いちゃうとね僕もあの京都にとどまるを取りたいんですけれどもまあやっぱりあえて東京に向かうということをですね選択したいと思いますはいあ
00:40:44外国に一度は行ってみたいという気持ちがあったんだろうと目が見えてても見えなくても目が見えない自分をどういうふうにこの西洋社会が受け入れるかというかどういうふうに扱われるのかということを実際感じてみたいというふうに思ってもおかしくないかなというふうに思ってますね。
00:41:09東京行けばその先には横浜港がありますから岩倉施設団が出発したようにですね海外に行ってみたいと船にも乗ってみたいとそういうふうに思ったというふうにしておきたいと思います。
00:41:27さあ2人は意見が分かれました磯田さんはどちらを選びますか僕は2の京都にとどまるを選びますまず東京に行って役に立つかというと東京なかなか人材多いので角間どこまで使われるかも分かりませんねなるほど
00:41:57今から言ってどのぐらい役に立てるかって問題が一つある。
00:42:03あともう一つあの京都を焼け野ヶ原にした原因が自分たちにあることの自覚もあったと思う。
00:42:11そもそもあれは藍津藩と薩摩藩がやっぱりあの大砲とかでこう焼け出したりあとあの長州兵が隠れてるからあの街に放火して歩いたっていうのが火元の原因だと京都では噂される。
00:42:23そうするとやっぱり京都防衛戦だけれども自分は焼いてしまったわけでやっぱり京都にとどまってあの京都復興を最後までやるっていうのが結構本人にとっても気持ちはいいんではないかなと。
00:42:42多分隠磨の視力がはっきりしてる時に最後に見た光景は燃えてる京都なんですよこれが一番最後に残ってる映像やとしたらかなり切ないんじゃないかそうですねそれでは山本隠磨が撮った選択をご覧ください
00:43:01明治5年に各間に出された事例が残されている
00:43:09京都府への出資を申しつける
00:43:15実は各間はこの事例が出される2年前の明治3年に京都府の顧問に就任していた
00:43:27各間は東京には向かわず京都にとどまることを選択したのだ
00:43:35京都の復興を託された各間は官権に記した内容を次々と実現させていく
00:43:47中でも各間が重視したのが学校教育による人材育成だった
00:43:57京都府は明治2年すべての子供が通える公立小学校を創設
00:44:03その年に京都に64もの小学校が建てられた
00:44:11その一つが現在京都市学校歴史博物館として利用されている
00:44:17全国でも珍しい学校の博物館である
00:44:21学芸員を務める林純平さんは京都の学校教育についてこう語る
00:44:33先行きがこの京都の人たち非常に不安になる出来事がこの明治維新の中であったと思うんですよね
00:44:41そういった先行きが見えない中で新しい時代の必要な知識を積極的に学んでその時代に対応していくための知と力を身につける
00:44:53京都の人たちにとってはこの教育というものが非常にこの近代化の出発点においてとりわけこの歴史的社会的状況から重要な意味を持ったのは間違いないかなと
00:45:05そんな中各間は官権で必要性を訴えた女子への教育を実行に移す
00:45:17明治5年京都に日本初の公立の女学校を開校したのだ
00:45:27そこでは裁縫や手芸などに加えて英語の授業も実施
00:45:34当時としては異例の女子教育だった
00:45:41角間はこの時妹の八重を京都に呼び寄せた
00:45:467年ぶりの再会だった
00:45:50角間は八重を新しい時代の女学校の指導者として抜擢したのである
00:46:02さらに学校教育とともに角間が力を注いだのが産業の振興だった
00:46:11明治3年 精美局といわれる科学研究所を開設
00:46:18外国人を招き西洋科学の研究から石鹸やガラス 陶磁器などの製品開発までが行われた
00:46:30そして養蚕場や鉄工場、革や紙などの工場を次々設立
00:46:37京都に新たな産業を生み出していった
00:46:42同時に角間は当時下火になっていた西陣の織物産業の復興にも着手
00:46:51西洋技術を取り入れ品質を向上させたことで西陣の織物産業は息を吹き返していった
00:47:05そうして生み出した商品をいかに販売するか 角間にはある考えがあった
00:47:14京都でひな祭りの文化が廃れたとき角間はひな人形の商人にこう言ったという
00:47:26ひな人形を日本中の人に売ったとて限度がある
00:47:33ひな人形をドイツ人に見せたら絶賛していた
00:47:40ここはドイツに人形を売り込むべきではないか
00:47:45角間は海外を相手に商業を行わんとしたのだ
00:47:52その絶好の機会となったのが京都博覧会だった
00:48:00角間は博覧会にあたり
00:48:02京都に外国人を積極的に呼び込むべきと提言
00:48:11外国人向けに英語で書かれたガイドブック
00:48:14京都名所案内を発行した
00:48:21自らが内容を考え英語を学んだ八重が活字を拾ったといわれる京都の観光の歴史を研究する千代間泉さんはこのガイドブックが出された意図についてこう語る
00:48:41こちらは西陣折の説明でございましてお帰りになってくださいねというようなことが書いてございます京都に来ていただいてお金を落としていただくというそういった国際観光というのを高めたいというふうに思いが京都博覧会にはあったと思います
00:49:03同時に角間は博覧会で京都の職人を刺激し産業をさらに活性化させることも狙っていたという
00:49:15京都の物産をですね京都博覧会に出しますと品評会で受賞することができるんですね この物品はあの京都博覧会で賞を取りましたということでやっぱり貿易にも産業にもすごくモチベーションが入るんですねそういったことからも京都博覧会というのはあの京都の
00:49:42もう既視改正でからとあの伸びゆく京都というのを支えた大切な博覧会であったと思います
00:49:50こうして現在の京都の礎を築いていった角場は明治12年京都府議会の初代議長に選出された
00:50:03京都五所の北にある同志社大学の今出川キャンパス
00:50:15その一角に一つの石柱がある
00:50:21薩摩藩邸跡実はここには角間が遊兵されていた薩摩藩邸があった角間は戊辰戦争の後この土地を購入し所有していた
00:50:40本人自身が薩摩藩邸に遊兵されていたここからその京都の復興が始まった原点みたいなものですから
00:50:55ここを何とか活用したいっていうそういう思いを角間は持っていたかな
00:51:01多くの外国人と交流を重ねた角間はいつしかキリスト教にも興味を持つようになっていた
00:51:10そんな時に出会ったのがアメリカで洗礼を受けた新島嬢だった
00:51:19後に八重の結婚相手となる人物だ
00:51:31新島のキリスト教主義の学校を作りたいという考えに角間は共感
00:51:38薩摩藩邸のあったこの土地に同志社英学校後の同志社大学を築いた
00:51:52大学の礼拝堂には学校設立に貢献した角間の肖像画が飾られている
00:52:01これが山本角間の肖像画です
00:52:05角間は日本古来の学校ではなくて
00:52:10西洋のことを教える学校というのがどうしても早く作りたかった
00:52:16そこで育った人たちが改めて京都の復興にまた携わってくれるということまで考えていたと思います
00:52:24角間は明治25年65歳でその波乱の生涯を閉じた
00:52:35幕末に京都に登って以来
00:52:39故郷である藍津へは一度も戻ることなく
00:52:43ひたすら京都の発展に捧げた人生だった
00:52:47山本角間は京都を復興させることを選択し
00:52:57京都の近代化を実現させました
00:52:59磯尾さんはどうしてこの角間の京都復興は成功できたと考えますか
00:53:05まず京都自体のポテンシャルがあると思うんですよ
00:53:09まあおそらく日本一だろうとされる敷地率
00:53:12豪商なんかになったら百人種だけじゃなくて
00:53:15五金種まで全部覚えているような商人がいっぱいいる街
00:53:18マンパワーがあるわけです
00:53:20それだけじゃなくて職人のハンドパワーがあって
00:53:24新産業を起こす土台がしっかりあるわけですよね
00:53:27ただそのままだとダメなので世界を相手にすると
00:53:33どういう方法でいくかというと西洋化でいくんだと
00:53:36ドイツに京人形を輸出するという発想になると
00:53:41同じ技術なんですけど
00:53:43英語のパワーフで京人形を作って
00:53:45博覧会を開いて京人形を外国人に見せれば
00:53:50そういう輸出の口がつくということですよね
00:53:53そこが角間の企画力と戦略の正しさというか
00:53:57軍師角間ですよそれこそ本当に
00:54:00当時ね大阪や神戸に来ている西洋人は
00:54:06京都へ勝手に来ることができなかったんですよ
00:54:09だけど博覧会の時はそれを取り払って
00:54:13どうぞ神戸や大阪の西洋の皆さん来てください
00:54:17これが京都商品のキャンペーンにつながるんですよね
00:54:22京都博覧会の出し物として始まる都踊り
00:54:27芸子さんの自由玉入って
00:54:31小さい座敷でシャミセンでチントンシャンだと
00:54:36普通思わはありますよね
00:54:37だけどそれを劇場のレビューに仕立てたんですよ
00:54:43西洋化の一つですよね
00:54:47その延長上に京都に何としても西洋人を招きたいという
00:54:53延長上の最後の仕上げが私は同志社だったと思う
00:54:58実を言うとね
00:55:01同志社は明治8年に英学校を開くんだけど
00:55:05明治6年まで日本国はキリスト教を禁止していたんですよ
00:55:12キリスト教禁止の高札が立ってたんですよ
00:55:16これテッドしたようやく明治6年で
00:55:18まだまだそんな学校を許せるような
00:55:23民族的な雰囲気はなかった
00:55:25新島城も目下がって京都を選んだんじゃないんです
00:55:30山本角馬と出会って
00:55:32こいつなら託せると思ったんじゃないかな
00:55:36彼の場合は本当に踏み込んでて
00:55:41いやキリスト教を排除したら
00:55:44西洋化もできないという思いっきりがあるわけです
00:55:46西洋化をする時にほとんどの人が思い切れなかった
00:55:50キリスト教を排除しないという選択肢ですよね
00:55:54そういうところで過激な西洋化というのを
00:56:00試せる場所だったんだと思うんです
00:56:02岩下さんはどう思いますか
00:56:04京都の人たちはやっぱり
00:56:07ある意味天皇や公家の生活を支えてた人たちでして
00:56:13孔明天皇の上位思想っていうその感覚を
00:56:17京都の貴族あるいは京都の町中たちは
00:56:20そういう状況の中で外国文化を導入したり
00:56:27根付かせるっていうのは非常に大変なことで
00:56:30そういう新しいものに対する反発っていうのは
00:56:33非常に大きいと思うんです
00:56:35でもしがらみのないよそ者である
00:56:38この角魔だからこそ
00:56:41ある意味そういうことを
00:56:43いやーこれやっぱりやらなきゃいけないですよね
00:56:45っていう話になると思うんですよね
00:56:47まあよそ者によるむしろよそ者だからこそ
00:56:51できたその災害復興のモデルケースじゃないか
00:56:54というふうに私は思います
00:56:56ただね結果的にラッキーだった面はあると思います
00:57:00京都の歴史を考えた時に
00:57:03朝廷と久下は間違いなく京都を捨てたんですよ
00:57:08でどっか後ろめたく思ってる
00:57:11明治天皇は間違いなく後ろめたく思ってた
00:57:15そこにね京都府は付け込んだんです
00:57:18政府にお金を要求するんです
00:57:24でこれは明治天皇からの五貸資金という
00:57:28お金が下りるんですよ
00:57:29つまり京都は特権的な自治体で
00:57:33朝廷から医者料と養育費をもらってたんですよ
00:57:38この医者料と養育費をもとにして
00:57:43隠間の仕事は花開くんですよ
00:57:45なるほどね
00:57:47さあ今回山本隠間という人物について見てきましたけど
00:57:51磯田さんどのようなことを感じましたか
00:57:53いやこれもう山本隠間って合図っていう
00:57:56もうかなり偉大な教国が滅亡した後吹っ切れて
00:58:01ひたすら模索していって
00:58:04こうじゃなきゃいけないを否定していくものだと思うんですよね
00:58:08外国人は京都に入っちゃいけないとか
00:58:10キリスト教はダメだとか
00:58:12男と女には役割があるから
00:58:15違うようにしなきゃいけないとか
00:58:16いうようなものを全部壊していくわけですよね
00:58:18それで再生していく物語で
00:58:21僕らも似たような世界にやっぱりいる気がしますよね
00:58:25過去の成長モデルって完全にもう壊れちゃって
00:58:28世界は相手に何か新しいことをしないと
00:58:31とてもじゃないけど
00:58:32明日のママも難しいという時に
00:58:35カクマのような人が現れ
00:58:37またカクマのような人間に
00:58:40一人一人になっていかなきゃいけない
00:58:42本当にこうじゃなきゃいけないっていう発想を
00:58:46どこかで取っ張らなきゃいけない時が
00:58:48ありそうですよね
00:58:49皆さん本日ありがとうございました
00:58:52ありがとうございました
00:58:52英雄たちの選択
00:59:02江戸無欠会場に挑んだ侍たち
00:59:05当事者が残した手記から
00:59:07命がけの交渉をその舞台裏に迫る
00:59:10BSで12日夜9時
00:59:16スポーツヒューマン琉球ゴールデンキングス
00:59:19岸本龍一
00:59:21逆境に立ち向かう
00:59:23そういうのがやっぱり沖縄バスケ
00:59:24次の世代へ沖縄バスケをつなぐ
00:59:28サッカーのその
00:59:31テーマはロングパス
00:59:33ロギモロギモ
00:59:35はぁはぁ
00:59:40BS今日深夜0時10分
00:59:42キックオフ
00:59:43BS世界のドキュメンタリーはAI開発の裏側
00:59:49トランスヒューマニズムやロングターミズム
00:59:52巨大AI企業のトップが影響を受けている考え方とは
00:59:57放送は6日夜
00:59:58空の玄関口
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01:00:21空の玄関口