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00:00偶然の勝利はあれども、敗北はすべて必然。
00:08日本の歴史を彩った偉人たちは、いかにして敗れていったのか。
00:13その裏にはどんな原因と過ちがあったのか。
00:18今回はシリーズ、家康に天下を取らせた武将たち第2弾、
00:25本田正信の敗北を紐解きます。
00:30一度は主君に背きながら、誰よりも厚い信頼を獲得した家康の懐がたが、
00:37将軍を陰から支える使命のバトンは我が声。
00:42それなのになぜ戒役の浮き目にあったのか。
00:47敗れし者たちの失敗から学ぶ人生哲学。
00:53歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちは何を学ぶのか。
01:10偉人敗北からの教訓、進行役の中西優里です。
01:15前回は家康に天下を取らせた武将たちということで酒井忠嗣を取り上げましたけれども徳川家の家臣団というのはこれだという何か特徴みたいなものはあったんでしょうか。
01:32はい昔からねあの三河武士は強直で頑固者が多いって言われてますよねまた徳川家臣団は忠誠心が強くて結晶部分が特徴だというふうに言われてますけどねただこれらはですね勝者が後に自称したという部分も多分にあるんですよねこれは江戸時代中期に幕府が推奨した諸子学の影響も大きくてですねそれによって忠誠心というものをかなり強く徳川家臣団は当初から持ってたというふうにアピールしたんですよね。
01:59ただまあ冷静に見てみると突出した特徴はなかったんじゃないかなと思いますよね他の家に比べてねあの部片物も知恵物をバランスよく配置できていたからこそまあ家康が天下取りができたんじゃないかなとそういう人の面でも家康というのは運が強かったんだなっていうのを特徳川家臣団を研究していくとね非常にわかってくると思うんですよねそうですね
02:25さあ今回は家康に天下を取らせたもう一人の人物こちら三望の本田正信の敗北に注目していきたいと思います
02:36家康の前半戦を支えたのはどちらかというとこう戦場で目立つような武兵物というようなイメージがあるんですけれども
02:45後半で一番信頼していたのがこの本田正信と言われているんですよね
02:50まさにこの人ほど暴振という言葉がねぴったりくる人物いないと思うんですよねただ一方でこの正信は徳川渦中で結構嫌われ者だったというエピソードも残っているんですよねでおまけに亡くなった後本田家というのは戒役されてしまいましたけれども何かここにもいろいろなドラマがあったんだろうなというのを想像してしまいますねありましたよね
03:14正信本人も家康死後本田家が眺略するんじゃないかという危惧を抱いていたような痕跡が残っていますのでねそんな正信の人生を俯瞰してそこから教訓を汲み取っていきたいというふうに思っておりますはい今回はそんな本田正信の敗北をひもときながら明日を生きるための教訓を探していきますまずは本田正信の人生を振り返りますこちらをご覧ください
03:40天下人徳川家康の側近として知られる本田正信は1538年松田居らしに仕える本田家の次男として三河の国に生まれます
03:571560年の桶狭間の戦いには家康の家臣として参加しますが
04:073年後の三河一行一揆では一揆勢に身を投じて主君の家康に激しく抵抗しました
04:17一揆の新月後多くの家臣たちが起産する中
04:26正信はそのまま出本し北陸や機内などを放浪します
04:32再び家康に仕えたのは武田家滅亡後の1582年本能寺の変直前と言われています
04:44起産後の正信は旧武田家臣の登用や新たな領土の統治など
04:53内政、大綱など幅広い分野で才能を発揮し家康の信頼を獲得しました
05:00そして豊臣秀吉の命で家康が関東に違法されると
05:09相模玉縄一万石の大名となります
05:13秀吉の死後は家康の参謀として天下取りに向けた暴力を巡らせ
05:23関ヶ原の戦いでは敵方との交渉などでも活躍しました
05:29徳川幕府誕生後には老中にあたる立場で幕政の基礎を固め家康を支えます
05:411605年に家康が将軍職を秀忠に譲ると
05:48正信は参謀として江戸で二代将軍秀忠に仕え
05:53駿府にいる家康の補佐役を釈南の正積みに任せます
05:58こうして正信は家康秀忠の二元政治を親子で支え
06:07こんだけの名をとどろかせたのです
06:10ところが大阪の陣の翌年に最大の理解者であった家康が亡くなると
06:21わずか2ヶ月後に正信もこの世を去ります
06:26その後本田家を継いだ正積みは15万石を超える国高を得ますが
06:36その3年後に無本の権威をかけられ解液されました
06:41これぞ正信敗北の瞬間です
06:48なぜ正信は信頼のバトンを息子につなぐことができなかったのでしょうか今回は徳川家を支えた名産後本田正信の敗北に迫ります
07:02さあここで本田正信の人生の主な出来事振り返っていきます
07:08この年表を見ていますと1563年三河の一行一期に参加してここで出本をしているじゃないですかそのあと1582年に徳川家に帰ってくるまでの間ここで一体何をしていたんだろうというのが気になるんですよね。
07:24わずかながら分かることからするとですね加賀の国に行ってそこの一行一期にですね協力してたということそしてその後ですね松永久秀に仕えたというそういったものも残っているんですよね
07:38徳川家に起算した当初は高城だったという説もあってですね
07:42なぜ高城から始めたかというとやはり正信というのは各地の知事いわゆる地理を知り尽くしているということからですね非常に地形を読む目が持っていたというわけですよね
07:53地形を読む目だけではなくて正信はですね各地に築いた人脈も自分のセールスポイントとしていたと思うんですよ
08:01その徳川家を出奔して放浪していた生活ってデメリットじゃないですかマイナスでいいんじゃないですかしかしそれをプラスに転化してそしてそれをセールスポイントとして受け入れられていったということが言えると思うんですよね
08:13前半生ちょっといろいろね分かってないことが多いですけれどもあの家康のその後半生の背後には必ずと言っていいほどこの正信がいたということで大活躍だったんですよね
08:26まあ冒頭であの家康の防臣というふうに言いましたけどおそらく様々な暴力に関与してたと思うんですよ
08:33ただ暴力ですからね具体的な記録はないのでどれだけどの暴力に関与して貢献してたかというのはなかなか分かりにくいですよね
08:41家康がここまで取り立てているんだから相当な能力の持ち主であっただろうなというのは分かりますよね
08:47それは間違いないですね
08:48主君に背いた下級武士から天下人家康の側近へ華麗なる転身を果たした本田正信
08:56その人生は同僚たちからの恨みや妬みとの戦いでもありました
09:02こちらをご覧ください
09:03家康に友と呼ばれるほど信頼されながら
09:09徳川家臣団には最も嫌われたと言われる本田正信
09:16後世に伝わる正信の印象
09:20それは家康の影でうごめく狡猾な陰謀家というものでした
09:26そこには江戸時代初期に大久保彦左衛門忠敬が記した三河物語の影響があります
09:35徳川の歴史と大久保一族の功績を綴ったこの書には
09:42正信正澄親子が暴力をめぐらす悪者として描かれています
09:48正信の地元安城市歴史博物館の三島さんはこう言います
09:56大久保家が失脚させられたという意識が強いので
10:01本田正信は恩とかそういうものを感じないのかみたいな
10:05めちゃくちゃ描いてますからね
10:07家康の代理人として幕政を仕切る正信
10:12その存在は虎の意を狩る狐として
10:17古くから仕える徳川家臣に憎まれました
10:21なぜ正信はそこまで嫌われたのでしょうか
10:271538年松平家の家臣の家に生まれた正信は
10:35幼い頃から家康に仕えたと言われてきましたが
10:39正信の生涯を研究する本田さんによると
10:451560年の桶狭間の戦いで
11:03正信は家康とともに今川軍の一員として出陣しました
11:08この時今川義元が信長に討たれると
11:15家康は今川家から独立し三河の統治を目指します
11:20しかしその過程で重大な決断の時が訪れます
11:281563年の三河一行一騎です
11:34一騎の背景について拠点となった本生寺の住職
11:41小山さんはこう話します
11:44そもそもこの三河という地域はものすごい浄土新宿が盛んな土地で
11:49お寺を中心として自治都市が作り出されておったわけですね
11:54松平家は非常に貧しかったと言いましょうか
11:57これは全国に打っていくのには本当に肝心な兵糧とかが全く足りないということで
12:03目をつけたのがお寺なわけですね
12:06独立したばかりの若き家康が一行宗の寺に与えられていた
12:12守護士不入の特権を破り米を奪ったのです
12:17この衝撃は三河国内の寺だけでなく
12:23一行宗を信じる家臣たちにも広がりました
12:27信仰かそれとも主君への忠誠か
12:35非常に不安が高まった時というのは
12:38本当に阿弥陀如来の極楽浄土に迎え取るという救いは
12:42もうみんなの心に深く浸透しておりましたから
12:45もうこの現世だけではなくて
12:47死後の世界まで保障してくれるといったような
12:50その信仰はもう家臣だとっては何よりもありがたいものだったわけですね
12:54長瀬家臣たちが次々と反旗を翻します
12:59その中に正信の姿もありました
13:03徳川家を二分した大事件も
13:08家康はどうにか一揆を鎮圧し
13:11背いた家臣たちの帰惨を許すという
13:14寛大さを見せました
13:15この対応について
13:21歴史研究家の市橋さんは
13:23こう見ています
13:25これはね
13:27心が広いからだ
13:29これ三河物語に書いてあるんだけど
13:31そうしたのに
13:32これから三河の統一に向かおうとしている時に
13:37やっぱり重要な自分たちの戦力だった
13:40だからほとんど大胸許してきました
13:43しかし正信はこれに応じませんでした
13:47その時にはかなりの家臣が
13:50例えば浄土宗の方にとかね
13:53回収しているんですよね
13:56回収したら許すっていうのは
13:59そういう形があった
14:02正信はそれに従わず
14:06家康に下るのを潔しないでね
14:10出本することになったんじゃないかと
14:13もはや戻ることは許されない
14:16正信はそのまま家康のもとを去りました
14:21向かったのは
14:24戦乱渦巻
14:26北陸
14:27紀内
14:28東海
14:30そして紀伊
14:31各地の一行一騎に参加しながら
14:36放浪生活を送ります
14:37その途中で出会った
14:42大和の国の戦国大名
14:44松永久秀は
14:46正信を公表しています
14:48徳川の侍を見ることは少なくないが
14:53多くは武勇一辺党の輩
14:56しかし一人正信は
14:59豪にあらず
15:00銃にあらず
15:02火にあらず
15:03非常の器である
15:05知略と冷静な判断力を持つ
15:09極めて貴重な人材
15:11松永久秀は
15:14正信の器量を見抜いていました
15:16松永久秀は
15:19この無縁者じゃなくね
15:21知恵者であり
15:22物事をいろいろ
15:24もつれることがいろいっぱいあるわけだけど
15:27きちっとそれをさばきながら
15:30落としどころをしっかり探れる
15:32調停力って言うんですかね
15:34これがやっぱりあるんですね
15:37時は流れ
15:40各地の一行一騎は収束に向かいます
15:44もはや正信が身を寄せる場所は
15:50どこにもありませんでした
15:521582年
16:16武田家の滅亡によって
16:18貝の国を手に入れた家康は
16:21頭を悩ませていました
16:26貝信濃には多くの武田の維新たちが
16:30都党を組んでいました
16:31家康はそれを抑えなきゃいけない
16:33武力を使わずに旧武田家臣を抑えるものが必要だったのです
16:39そこで正信を推挙したのが
16:43三河一行一騎でともに戦った高木博政です
16:48彼の能力を必要としている
16:53おそらく家康に話をして許可を得ていったんだろうと
16:59通説では正信の起産に尽力したのは
17:03かつての同僚大久保忠代だと言われていました
17:07しかし近年の研究では
17:11高木が家康に進言したという説が有力です
17:15正信の出本からすでに20年近くがたっていました
17:20苦労と言うんでしょうねきっと
17:25大変だったと思いますよ
17:27浪人生活に疲れた正信にとっては
17:32渡りに船でした
17:33嫌々ではなくてね
17:36喜んで戻ったと思いますよ
17:38帰ってきてくれたら
17:40こういう場所もちゃんとあると
17:43いいやつのために尽くそうと
17:45おそらく親近って思ったと思いますね
17:48正信の能力を知る高木の仲介により
17:53およそ20年ぶりに家康の家臣となります
17:57裏切りと報道を経て起産した正信
18:02待ち受けていたのは厳しい現実でした
18:06やっぱり帰り神山ということであればね
18:11やや白い目で見られるということはありますよね
18:16帰ってきた神山者
18:20そう呼ばれた正信の事業は
18:23わずか40国
18:25ほぼゼロからの再スタートです
18:28家康を裏切った男と
18:36冷ややかな目で見られながらも
18:37正信は望まれて帰った身だと胸を張りました
18:42そんなに自分がどう思われるかしらなんて
18:47思うような人間じゃなかったと思いますけどね
18:50これからは家康に尽くすと決意した正信は
18:55旧武田家臣との交渉に乗り出します
18:58ここで一気に正信が当格を表したと
19:04巧みな交渉で大勢の武田家臣を見事徳川家に引き入れました
19:11武力的な面と経済的な両国支配の面と両方で非常に大きな意味があったと
19:19武田家を飲み込み勢力を拡大した徳川家
19:24この功績で正信は家康の信頼を獲得します
19:291590年
19:33豊臣大名となった徳川家は関東へ違法されます
19:42この時正信は相模の国多摩縄一万石の領主を手にします
19:48わずか40国で起産した正信が大名に名を連ねたのです
19:55徳川家康ってちょっと僕不思議な人だなと思うのは
19:59非常に猜疑心が強い人なんですけど
20:01その三河の出身者であるとか
20:05酒井だとか本田だとかいわゆる門抜
20:09ああいった連中はまず信じてましたよね
20:12いろんなことを全部
20:13自らの地位を確立した正信は
20:18関原の戦いの戦後処理でも手腕を発揮します
20:23西軍の大物島津氏は
20:26和睦の条件である当主義久の上落を拒んでいました
20:34そこに正信が朝廷に入ります
20:37この提案に島津氏も納得し
20:56無事に和睦を成立させたのです
20:59相手の立場に立ち落とし所を見つける
21:04これが正信の朝廷力です
21:08三河の人たちというのはやっぱり器用じゃないですよね
21:12もう槍働きっぺんとうでしたからね
21:15うまくこう話をしてね
21:17相手を自分の味方に引き入れるとか
21:20そういったことは苦手だったんでしょう
21:23その中に正信は得意な存在になってくるわけですよ
21:27戦乱のよう、手略で生き抜く正信は
21:32徳川家になくてはならない存在となったのです
21:36一度裏切ったのに再び家臣になって
21:43しかも重心まで上り詰めるというのは
21:45確かにね、正信が味方したのは宗教集団
21:49一行一騎だったということですよね
21:51一行宗本願寺派の場合
21:53土豪や地侍といった武士門徒も多かったので
21:56徳川家臣団を二分するようなことになってしまったわけなんですね
22:00一騎の後、正信は家康から許されるチャンスもあったのに
22:04起産ではなくて出本という道を選んだじゃないですか
22:07これはなぜだと思われますか?
22:09正信には野心があったからだと思っているんですよね
22:11これで起産してしまうと
22:15徳川家中での上がり目というのは
22:18ある程度限られてきますよね
22:19それよりも一気に味方して
22:22一気勢の対象にでもなって
22:24できれば一国一条なんていうのをね
22:26正信は夢見てたんじゃないかなと思うんですよね
22:28古くから家康に仕えてきた家臣たちは
22:31正信のことを相当嫌っていたみたいですけれども
22:35当時の武士のメンタリティーというのを表しているのにですね
22:38自分の功績は無限に大きく
22:41他人の功績は無限に小さいというような
22:44そういうメンタリティーを持っているんですよね
22:46しかもヒステリックなばかりに
22:48嫉妬心が強いということで
22:50正信の出頭に対してですね
22:52非常に反感を持っていたんじゃないかなと
22:54しかもですね
22:55正信は戦働きで出世したわけではないという点
22:58これが大きいと思うんですよね
23:00やっぱりいつの時代もですね
23:02戦友というのは
23:03お互いに助け合いながら苦しい戦いを
23:05戦い抜いていくということで
23:07そこから友情が生まれるわけですよね
23:09ところが正信の場合は安全権に身を置いて
23:13家康に代わって指示を伸ばすと
23:15それだけで出世していったというような
23:17こういったものはですね
23:18どこの家中でもあるもので
23:21誰かが出世すると必ずですね
23:23駆け口が叩かれるというのは
23:25現代社会でも同じだと思うんですよね
23:27足を引っ張る人はいますよね
23:29でも徳川家中でこんなに嫌われていた正信を
23:33家康は徴用していたわけじゃないですか
23:35それだけ正信の能力を買っていたということなんでしょうか
23:39当然ですね
23:40正信の能力を高く評価していたと思うんですよね
23:42それだけではなくて
23:44家康は正信のことを
23:46友というふうに呼んでいることから分かるとおりですね
23:48かなり2人で密談をして
23:51アイデアのキャッチボールを行えた
23:53そういう唯一の存在だったんじゃないかなと思うんですよね
23:56他にはいない存在だった他にはいなかったんじゃないかなと思うんですよね
24:00周囲の雑音や冷たい目に負けないためには受かれずに自分の身を厳しく立するしかありません
24:08きっと誰かがちゃんと見てくれているはずですよ
24:13宮台依然とした組織の中で多くの同僚たちに疎まれながらも主君家康を天下人に押し上げた本田正信
24:27徳川将軍からの絶大な信頼というバトンは息子正澄にしっかりと継承できるのでしょうか
24:351603年徳川家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開きます
24:45そのそばには常に本田正信の姿がありました
24:51水魚の交わり江戸時代に編纂された関西長州諸家府は水と魚のように切っても切れない
25:02家康と正信の関係をそう表現しました
25:07家康からの絶対的な信頼を得る正信は関東総武業という養殖につきます
25:37その役割は江戸の町づくりから両国の統治さらには将軍家康と諸大名をつなぐ取継役まで担いました
25:49この時の正信の所領はわずか2万2千億権力の大きさに見合わぬ小さな領地です
26:01それには理由がありました
26:05正信自身がね自分の立場をわきまえていると自分がどういうふうに思われているかということがね十分にわかっているから
26:17家康の話はもちろんあったんだけれどもそれは断るわけですね
26:21正信自身が家康を誇示していたのです
26:26権力者が領地を増やせば必ず周囲の嫉妬を買うことを正信は知っていました
26:33表舞台には立たずに徳川の屋台骨を裏から支えるそれが正信の生き方でした
26:471605年家康は将軍職を辞任し息子秀忠に譲ります
27:01同時に家康は秀忠の指南役を正信に命じたのです
27:08秀忠のまだ知性に不安があったからですよね心配してただから正信だったら俺の考えはもういちいち伝達しなくてもわかるだろうから俺の代わりに秀忠にいろいろ意見をごしにしてくれると
27:25江戸と駿府の二元政治が始まると将軍秀忠を正信が大御所の家康を正信の着名の正住が支えることになりました
27:37江戸時代の歴史書半官府に
27:43親子愛並びて天下の剣を取ると評されるほど本田親子の影響力は絶大なものでした
27:55ある時正信は息子の正住にこう忠告します 3万億以上は受けるな
28:10それ以上を得れば周囲の妬みを買い災いを招く だから決して欲を欠いてはいけない
28:19それは本田家がこの先もずっと将軍の取り継ぎ役として幕府を支え続けるためでした
28:29正信に残された大仕事は息子正住への引き継ぎです
28:36正信としては正住の代になってもね しっかりとその役割を引き続き
28:45秀忠の代でもね 続けていくということを期待してたでしょうね
28:53徳川の天下が続く限り本田家もまた将軍のそばで生き続ける それが正信の理想でした
29:04そのためには代々にわたる信頼関係が必要です しかし
29:10正住の権限というのは 家康あればこその権限だったわけで
29:18正信はもうしっかりと秀忠との連携があり 秀忠も正信を頼るということがあったわけだけれども
29:27正住とはちょっと疎遠ですよね
29:31基本的に正住は駿府の大御所家康の下にいたわけですから
29:37江戸で起案したものを駿府で却下する場合もあった
29:42その場合に出てきたのは正住が出てくるわけです
29:45大御所様はこれを許さないと言っている
29:48だから江戸の人間はね結構家康のことよりも正住を恨みに思ってた抽選がありますよね
29:56正信の思いは息子に届くのでしょうか
30:071616年 初代将軍徳川家康がこの世を去ります
30:15正信・正住親子にとっては最大の後ろ盾を失う出来事でした
30:24そのわずか2ヶ月後
30:26家康の後を追うように正信もこの世を去ります
30:31去年79
30:35一度は主君に背きながらも
30:39帰山後は一切の欲を捨て
30:42家康のために尽くした生涯でした
30:45ただし幕府の組織づくりは道半ば
30:51幕藩体制の確立に向けてやり残したことはまだまだありました
30:58父の意思を継いだ正住は江戸に移り
31:042代将軍徳川秀忠の側近となります
31:08父と同じく嫌われ役を担う正住ですが
31:152人には大きな違いがありました
31:19正信はねいつでも家康の陰の存在だったんです表に出ないところが正住はそうじゃない目立つそういうふうに目立ったもんだから敵も増えたということですよね
31:37幕府の世代交代が進む中
31:40正住は秀忠と周りの側近衆にとってうとましい存在となっていきます
31:461619年
31:56正住は二代将軍秀忠から宇都宮15万5千億への大火増を打診されます
32:06それは家康の遺言だったといいます
32:11そんなものは私にはちょっと贅沢すぎるというようなことで断ってたと思います
32:203万石以上はウケるな父の教えが正住の脳裏に浮かびます熟行の末正住は家蔵を辞退しますしかしこれが秀忠の怒りを買いました
32:39俺の言うと聞けないのか俺を馬鹿にするのか俺のものはいらねえってんだよお前がというところです
32:46結局父の教えを破り過剰された正住はわずか3年で戒役
32:58代替後に将軍を支え続けることができなくなった正信無念至極の敗北です
33:09あれだけ嫌われないようになるべく敵を作らないようにすごく気を遣っていた正信ですけれども本当に残念な結果になってしまいましたね結果的にねそういった意味で言えば正住がどうしていいか悩んだと思うんですよ
33:27親の遺言を重視して断ったところがそこに難癖をつけられて秀忠としてはですね俺があげるって言ってるものをいらねえっていうのかっていう話になったということで非常にこの辺りの駆け引きって分かりにくいですよねそうですね正信って当初は家康の後継者に秀忠と違う事物を推していたそうですね
33:49ここで歴史作家ならではの視点で歴史の裏側を考察する伊藤潤の見解ポイント
33:57正信が推したのはまあ結城秀康というですね秀忠より年長のまあこちらも即死腹なんで同じような条件だったんですけど結果的に家康はあの秀忠を将軍職に据えたということで
34:12もしかしたらこれがですね家康が正信のアドバイスを聞かなかった初めてかもしれないですよね なぜ正信は秀忠を推し家康は秀忠に決定したかということが重要だと思うんですけど
34:26まあこれはですね正信と家康の時代を見る目の違いだと思うんですよね 正信は関原の以降も戦乱が続くと見てですね
34:35武勇に優れた秀康こそ二大将軍に適任だと思い一方の家康はもう天下は平定されたんでもう戦はないと
34:43平和な時代の異性者として主政の人秀忠が適任だというふうにこう思ったと思うんですよね ところが結果的に大阪の陣があって正信の弱みが当たったわけですよね
34:55ところがまあ家康もこの時健康だったですよね ですから家康と秀忠の二円三脚で豊臣家を滅ぼすことができたわけで
35:04秀康にする必要はなかったということになるわけなんですよね ただ万が一ですよ関原から大阪の陣までの間に家康が死んでいればですね
35:13正信が推した秀康の方が将軍には適任だった気がしますねなるほどじゃあもう本当にそこを追っても運といいますかちょっとした紙一重の差ですよね紙一重の差ですね正信自身も本当に周囲の恨みを買わないために自分や息子の国高を抑えていたじゃないですかただあれ本音ではどうだったのかなというのも思うんですよね
35:43分かるわけですから数を辞退することでそういった攻撃をかわそうとしかも代替わりは目前ですからね秀田とその側近たちによってまあ本田富士が失脚させられるその可能性っていうのはかなり高いなというふうにあれだけ状況判断力とかがある人間ですから分かってたと思うんですよね
36:03当人同士が時間をかけて築いた信頼関係を後継者にそのまま引き継ぐのは至難の技人と人には相性ってものもありますからね
36:18家康の影となって幕府の成立に心血を注ぎながら疎まれ、妬まれ、嫌われてきた本田正信。しかし、彼が望んだ未来は訪れなかったようです。
36:35父正信のように立ち回れず火葬を受けてしまった正澄は周囲からの妬みと強い風当たりに苦しみました。
36:49さらに秀田暗殺計画という口頭無形な疑惑で本田家は海域に追い込まれたのです。
36:57幽閉された正澄は最後まで無実を訴えながらこの世を去りました。
37:04一方本田家の血脈を稼働じてつないだのが正信の次男正重です。
37:13正重は各地の大名を渡り歩いた後、加賀前田家の家老となります。
37:21加賀本田博物館の館長、本田正光さんは本田正信の子孫で次男正重から数えて15代目にあたります。
37:40親から子への手紙というのが一つ残っておりまして。
37:44自らの手で人を斬ってはいけない同僚たちに礼を尽くせ重ね重ね伝えるが人を斬ることは何とかして避けるように親御からあふれる子どものことを心配して書いたような手紙でございます。
38:05恨みを買うことの恐ろしさをどうにかして伝えたいそんな思いが見て取れます。
38:14正信はとても勤勉で真面目な人物だったとも伝えられています。
38:21明け方に出勤する正信よりも先にと真夜中から現場に向かう大名たちもいたそうです。
38:28勤勉で質素でそういう人には敵わないです。
38:35その人が真面目にやられちゃうと自分たちも真面目にやらなきゃいけないから真面目すぎて逆に嫌われたかもしれないです。
38:43戦乱の世から平和な世へ。
38:58変わりゆく時代を生き抜いて徳川家の天下を支える立役者となった正信ですが、彼のお墓はどこにも残されていません。
39:13信州門徒というのは長い時代ずっと墓所、お墓を持たないというのが習いでありました。
39:20貧しい民衆がほとんどその信仰を支えていたというのもありますけれども、一揆の時に迷わずこちらに加担してくれたという、お礼の意味も込めて供養徒というのが江戸時代に建てられたというふうに伝え聞いております。
39:34本庄寺の一角に立つ小さな供養塔は裏方に徹した正信の人生を静かに物語っています。
39:49本田家自体は海域になってしまいましたけれど、次男を過疎とした家として続いていったんですね。
39:56そうなんですよ。
39:57正信の次男の正成というのは非常に面白い人物で、若い頃に秀忠の馬の息子と諌かいの世を切り崩してしまって出奔してしまうんですね。
40:09次に大谷義次の家臣となるんですけど、ここをまた再び出奔するんですよ。
40:15浮田秀英の家臣になるんですね。
40:18関側の戦いでは西軍側として奮戦すると。
40:22そうなったんですか。
40:23そういう面白い人なんですよ。
40:24普通西軍に就いたある程度の武士はみんな殺されるわけなんですけど。
40:28よく許されましたね。
40:29正信の意向があったんで、おそらく見逃してくれたんではないかなと思うんですよね。
40:34その後また面白いのは、直江金次の向代子となってですね。
40:39今度は上戦家に入るんですよね。
40:41そうですか。
40:42やっぱりね、新山物ですから上戦家中で圧力もあって、また出奔するんですね。
40:49何回も出奔して。
40:51今度は前田家で3万石をもらって過労になると。
40:55これのうちに5万石になるんですけどね。
40:58正信のおかげで前田家は海域とか原本を免れたと言ってもいいぐらいだという。
41:03徳川家とのパイプというのを欲していたわけですよね。
41:07徳川家に帰産した後の正信って本当に過中で居心地は悪かったと思うんですよ。
41:13周りから嫌われたり冷たい目で見られたり。
41:16その中で彼自身何が生き甲斐だったと思われますか。
41:20正信の生涯の生き甲斐というのは家康天下人に押し上げることだったと思うんですよね。
41:25自分自身は影の存在でも構わないから家康に天下を取らせたいという。
41:30それが正信のすべてですよね。
41:32天下を取った後は江戸幕府をいかに永続させるかそれに力を尽くしていったわけですよね。
41:38それもうまくいったわけです。
41:40成し遂げられたわけなんです。
41:42ですから本田家の着流が海域とされても正信の人生は満足すべきものだったんではないかなというふうに私は思うんですよね。
41:49しかも次男の正重の家計が5万億で前田家に残ってますよね。
41:54それが大きな慰めになったと思うんですよ。
41:56さあ改めて正信の敗北から私たちが学ぶべき人生の教訓をお願いします。
42:02秀忠好きとしたのは家康の判断ミスだとしても正信がそこで断ることはできたと思うんですよ。
42:14病気というように偽ってですね引退したいんで私はもう身を引きますという形で家康に弁明することはできたと思うんですよね。ただそこでさらに徳川家に尽くそうとして秀忠好きを受け入れてしまったということこれが私はミスだったと思うんですよね。
42:34現代社会でも引き時を誤る人は非常に多いと思うんですよ。
42:38誰でもですね年を取れば衰えは訪れるわけなんです。
42:42ただ人というのはですねどうしてもそれに気づかないんですよね。
42:45しかしですね世代のズレっていうそういったものはいかんともしがたくて次第に外部環境やテクノロジーの進歩にもついていけなくなるわけですよね。
42:55でそれでも地位にしがみつこうとすると会社が衰えていくという私だけは大丈夫とか思いたがる方が多いんですよ。
43:04しかし逆に私こそダメだと思って早めに権限維持を進めていくとそれで逆に自分の地位を安泰にすることにつながっていくということもありえるわけですよね。
43:15ですから本当に引き時を分け回るって難しいんですけどこの身に染みて私もあの分かりますよね。
43:23引き際を誤って自分の地位を守りすぎると時代の流れや周りとのズレに気づきにくくなるものです。
43:33手放すことで得られるものを信じましょう。
43:38これぞ正信の敗北から学ぶ教訓です。
43:44家康を支えた人物として前回は坂井忠嗣で今回は本田正信を取り上げましたけれども2人とも全然違うタイプの人でしたね。
44:00田田嗣はどちらかというとマルチプレイヤーという感じですよね。
44:05正信のは帽子に徹してたわけですよね。
44:08おそらく田田嗣は家康の家がまだそれほどの大きさではなかったので帽子の役割も果たしていた。
44:15しかし、田田嗣自身が非常にいろんなところで忙しくなってきたということで帽子の座を次第に政信に譲っていったのかもしれないですよね。
44:25でもこれだけいろんなタイプの人を徴用したという家康の人材を選び抜くセンスみたいなものも改めて感じました。
44:33家康の幸運もあるかもしれませんけどね、やはり適材適所を心がけていた、そういった人事面もあって、家康は天下人として君臨することができたのではないでしょうかね。
44:45斉藤さん、きょうもありがとうございました。
44:48それではまた次回お会いしましょう。
44:54。