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00:00偶然の勝利はあれども、敗北は全て必然。
00:07日本の歴史を彩った偉人たちは、いかにして敗れていったのか。
00:13その裏にはどんな原因と過ちがあったのか。
00:20今回は、エレキテルで有名な江戸の記載、平賀源内の敗北を紐解きます。
00:28科学、文学、芸術などジャンルを横断し、多彩ぶりを発揮。
00:37時代の長寿となりながら、転落の人生を歩んでしまった理由とは。
00:46破れし者たちの失敗から学ぶ人生哲学。
00:53歴史上の偉人たちが犯した失敗から私たちは何を学ぶのか。
01:08また映画ドラマの影響で今また江戸時代に注目が集まっていますけれども主人公の蔦屋十三郎が生きた時代江戸では色々な偉人が活躍していたんですね。
01:17ちょうどね、蔦屋十三郎が生きた時代というのは18世紀後半なんですけど、10代将軍家春から11代将軍家成の時代なんですよね。
01:26さあということで今回はそんな名だたる偉人の中でもイサイオンです。
01:35こちら、平賀玄内の敗北に注目したいと思います。
01:44平賀玄内といえば土曜の牛の日のキャッチコピーであったり、あとあのエレキテルの復元というのがイメージにある方も多いと思いますけども。
01:53じゃあ実際この人本職は何だったんでしょうか。
01:57玄内の本職というのは本職ということになってるんですね。
02:06そもそもそも本職学とは何かというと、薬になりそうな植物とか香物とか昆虫とか小動物、それを研究する学問なんですよ。
02:15で、これはあのやっぱ将軍もそうですし、初代名もその功能に目をつけて、積極的に本職学者たちを支援してたんですね。
02:24で、この平賀玄内の場合はですね、高松藩の下級藩士の家に生まれましてね、先祖伝来の仕事は、
02:30お米蔵のお米蔵番ということで、お米の蔵の番人という、そういう仕事だったんですよね。
02:37じゃあ全然関係がないような感じがしますね。
02:40そうなんですよ。
02:41で、22歳の時に父の死去に伴い家徳を相続するんですけど、
02:45玄内はですね、
02:46原内はですね、
02:48全然関係がないような感じがしますね。
02:50そうなんですよ。
02:52で、22歳の時に父の死去に伴い家徳を相続するんですけど、
02:56玄内はですね、米蔵の番人だけじゃ俺の才能はもったいないよみたいな思ったのかどうか分からないですけど、藩の薬草園を管理するお薬坊主っていう人がいるんですけど、その主体薬に採用されるわけなんですね。
03:12ここから分かることは、玄内には非常に上昇薬があったんじゃないかということなんですよね。
03:18玄内ってとても有名ですけど、具体的に何をした人なのかというのは意外と知られていないんですよね。
03:24今の言葉で分かりやすく言うとマルチクリエイターという形で、何かこうね、発明するなり作品を発表するなりして、それがお金になりそうなものをね、こう考えてたというようなことですよね。
03:36まあただ彼がすばらしいのはですね個人的な利益よりも産業振興によって国益を生み出そうというそういう大きな志を持ってた点なんですああそうだったんですかはい
03:49今回はそんな平賀玄内の敗北をひもときながら現代にも通じる教訓を探っていきますまずは平賀玄内とはどんな人物だったのかこちらをご覧ください。
04:01今でいうマルチクリエイターとして今日に伝わる平賀玄内しかし玄内が本来志きらめようとしたのは薬効のある動植物や鉱物などを研究する本造学者としての道でした。
04:231728年高松館の下級役に白石もざえもんの産卵として
04:31さぬきの国現在の香川県さぬき市に生まれた玄内は
04:36子供の頃から理髪で授学や徘徊に親しむ一方
04:41自然界にも興味のまなざしを向けていました。
04:47そして13歳の時に高松館に仕える医師の下で本造学を学び始めます。
04:5922歳で父を失い家徳を継ぐと高松館の米蔵を管理する仕事も引き継ぎます。
05:10上昇志向の強い玄内はこの頃信濃の国の豪族であった先祖の生平賀を名乗ります。
05:22天気が訪れたのは3年後、長崎へ留学する機会に恵まれたことでした。
05:29それまで触れたことのない西洋の文化や最新の科学に出会い、刺激を受けた玄内は学問の道を志し、
05:41帰国後27歳で妹婿に家徳を譲り、江戸に活躍の場を求めました。
05:48江戸で10歳上の本造学者田村蘭水に指示した玄内は大規模な薬品の展示会を開き、
06:01イベントプロデューサーとして注目されます。
06:06また後に下作と称される大衆文芸の作者、浄瑠璃作家としても人気を集め、
06:15土曜牛の日に代表される宣伝文句も手掛けたと言われています。
06:21さらに摩擦で静電気を発生させる装置、エレキテルを復元し、主役その名を高めました。
06:31現代は時代の長寿となりますが、
06:38同じ時期に手掛けた鉱山開発に失敗し、人生の坂道を転げ落ちていきます。
06:46そして52歳のある日、主席で口論となり、人を殺めてしまうのです。
06:53現代敗北の瞬間です。
07:00玄内は何を謝ってしまったのでしょうか今回は自らの過ちにより転落を余儀なくされた平賀玄内の敗北に迫りますさあここで平賀玄内の人生の主な出来事振り返っていきます。
07:22高松藩の下級武士の家に生まれたということで、当時としてはそんなにたくさんの情報とか文化が入ってきたわけではないと思うんですけど、本人がマルチクリエイターみたいになったきっかけというのは何だったんでしょうか。
07:37これがですね、少年の頃からですね、玄内は優秀ということで高松藩の中でかなり有名だったんですけど、25歳の時に長崎に留学を許されているんですね。
07:471年間長崎に行ってですね、西洋の様々な文物に触れる機会があったんです。そして世界に対して目が開かれたということで、こんだけ西洋が進んでいるんだと、こうしては折れないぞという気持ちだったと思いますよ。
07:59ああ、そうですか。
08:00それで規範するとすぐにですね、藩に自粛願いを出しているんですね。
08:04ああ。
08:05時代的にはね、本当に家力を守ることにみんな誰もが救急としている時代じゃないですか。
08:10そんな時代にですね、家力などに執着せずですね、自分のやりたいことをやると言って江戸に出てく。これはいいですよね。
08:17ああ、そうですか。ただの現代はマルチクリエイターを目指していたわけではなかったんですよね。
08:22まああの現代という人間の本質を見抜くのはですね、非常に難しいなって気がするんですよね。
08:28最初私もですね、研究熱心で面白いことを追い求める天才肌の人間かなと思ってたんですけど、それだけではなくてですね、上昇意欲と自己顕示欲の非常に強い人だなという気がして、
08:41まあ一言ではその人となりを、こういう人っていうふうに説明できない、そういった不思議な人だっていうような気がするんですよね。
08:47なるほど。
08:48まあ多分ですね、本質がどうこうよりも、彼の置かれた状況とか性格からマルチクリエイターを目指さざるを得なかった。
08:56そういう人だったんじゃないかなって気がするんですね。
08:59ああそうですか。
09:00現代は子供の頃に掛け軸にある仕掛けをして天狗小僧なんて呼ばれていたんですね。
09:07ということで今日はスタジオにそのからくり掛け軸おみき天神を用意しました天神様なんですけども伊藤先生伊藤さんの顔を私がちょっと描かせて頂きましたせっかくなので今日伊藤さん実際にお酒を杯に注いで参拝をして頂けますか分かりました!
09:29こういう仕掛けなんですけどもこれ小学生用の工作キットとして今実際に販売もされているものです。
09:56今実際に販売もされているものだということなんですが当時は周りの人みんなびっくりしたでしょうね。
10:03子供の頃から好奇心旺盛だった玄内はさまざまな知識を吸収し本造学者として立心出世することを夢見るも厳しい現実に直面します。
10:18山あり谷ありの数奇な反省をご覧ください。
10:23今とは異なり夏場客足が遠のいていたうなぎ屋の店先に本日土曜牛の日と張り紙をし夏場手帽子にうなぎを食べようと呼びかけた人物が平賀玄内でありその文言は日本初のキャッチコピーであるとも言われています。
10:45文才のあった玄内は蔡谷十三郎が出版した吉原のガイドブック吉原再建の序文も手がけました。
10:57さらに玄内の代名詞にもなっているのがエレキテル。
11:04玄内の故郷香川県佐野基市にある平賀玄内記念館でその仕組みを見ることができます。
11:14ハンドルを回すと箱の中にあるガラス瓶がこすれ、その摩擦により静電気が発生するという装置です。
11:25西洋では医療用機器として使われていたと考えられています。
11:34玄内は長崎に留学した際、壊れていたエレキテルを持ち帰り、
11:40およそ7年もの試行錯誤の末、その復元に成功しました。
11:47学芸員の世来さんは、玄内がそれほどの労力を費やした理由をこう話します。
11:56一番大きいのは、玄内の好奇心だと思います。
12:00どうなっているのか知りたいっていう欲ですよね、知識欲ですよね。
12:05それが一番の行動原理だったんじゃないかなと思います。
12:09玄内の秩序を引く平賀家七代目当主、平賀和義さんは、
12:15玄内の性格は幼い頃から変わらなかったといいます。
12:21自分で見たもの聞いたものそんなものについて非常に興味を持ったみたいです。
12:29それで親たちにこれはなんだあれはどういうことだっていうことで聞くもんですから親たちは非常に難儀をしておったと思います。
12:38玄内は自宅に程近い寺で書物をひも解き、また、寺に立ち寄るお遍路さんに話を聞くなどして、さまざまな知識を吸収していったといいます。
12:55中でも現代が強い関心を示したのが身の回りの植物や昆虫などの生き物でした。
13:06そして13歳の時こうした動植物や鉱物を薬品として生かすべく研究をする学問本造学に出会うのです。
13:21自然界のものを全部自分が知りたいという思いが非常にあったと思うんですね。
13:28そうなれば本造学で名をあげるか、そういうことも考えたかも分かりません。
13:36家柄で出世は望めないが、学者になれば道が開けるかもしれない。
13:44そんな思いを抱きつつ、22歳で家徳を継いだ玄内は、信濃の国の豪族であった先祖にあやかり、生を平賀に改めます。
13:55本造学の知識を有する玄内には、米蔵の管理とともに薬草園を管理する仕事も任されました。
14:1025歳の時に、潜在一遇のチャンスが訪れます。
14:17自らが猛烈に志願したことで、長崎に留学することが許されたのです。
14:25平賀玄内の生涯を記した著書がある作家、シンドさんは、長崎での経験が、玄内を大いに奮い立たせたといいます。
14:39そこで出会った西洋の本造学といいますかね博物学っていう学問に出会うんですけどもそれの刺激というか影響がものすごい大きかったと思いますねだからそれを発展させていこうというような意欲が出てきたんだと思いますけど日本の本造学を発展させ広く世の中の役に立ちたい。
15:02当時、日本の本造学は中国の書物をもとに研究が進められていましたが、玄内はそこに西洋の知識を取り入れるべきだと考えたのです。
15:1727歳で高松に戻った玄内は病気を口実に辞職願いを提出すると、2年後江戸に出て朝鮮人人の国産化の研究に取り組んでいた本造学者、田村乱水の門を叩きました。
15:35日本の資源を生かして薬を作れば国益になる。
15:42そこで玄内は薬効のある日本の動植物や鉱物を一堂に集めて展示する薬品会を開催しました。
15:54日本にはどういうような資源があるんだろうどういうような鉱物や薬草があるんだろうということを知りたかったのと思うんですよね。
16:05それまで本造学の研究は個々の学者の一問ごとに行われていましたが、玄内はその垣根を取り払い、知識や情報を共有させようと考えたのです。
16:20すると、この薬品会を企画した玄内に多くの人が注目しました。
16:30その一人が当時町医者として活躍し、後に解体心象を表すことになる杉田玄白です。
16:41二人はやがて親友となり、その関係は生涯にわたって続きました。
16:50さらに、玄内が薬品会を開いたことで、本造学がお上の目に留まります。
16:59ちょうど頼高校とか当時のバグフが、地域の特産品を食産工業として盛り立てていこうという自愛背景もありまして、
17:10本造学というのがちょうどそこにぴったりはまってくる学問だったんですね。
17:16高松藩主、松平頼高は、玄内の知識を反省に生かすべく、以前の4倍もの給料を提示し、玄内を再び召しかかえようとしました。
17:31本造学者として名を高め、いずれは幕府に仕えたい。
17:37そう考えていた玄内でしたが、藩主の熱烈な誘いを断れず、一旦高松に戻ります。
17:48ところが、そこは、園内にとって望ましい環境ではなかったのです。
17:55高松藩主、松平頼高の熱烈な要請を受け、玄内は距離に戻りました。
18:23しかし、待っていたのは、藩主たちの冷たい視線でした。
18:30この砂があまり玄内玄内というものですから、それで給料がどんどんと上がってしまったものですから、
18:38もう足を引っ張られるというか、これでは妬み殺されるというところまで、何か文章にあるように聞いておりますけども。
18:48俺はこんなところに埋もれるような、そういうもんじゃないと、もっと大きな世界で羽ばたくべき人間だと、彼は思っていたと思うんですね。
18:571年余りの後、玄内は再び辞職します。
19:04この時、高松藩からある処罰を受けました。
19:09幕府や他の藩への士官を禁ずる、士官おかまいです。
19:16これにより、幕府に仕えたいという玄内の夢は、断たれてしまいました。
19:24しかし、元来楽観主義の玄内は、すぐに気持ちを切り替えます。
19:33そして江戸に戻ると、今までに例のない大規模かつ画期的な薬品会を企画しました。
19:43全国にそういう本造学をやったり、いろんな趣味でいろんなことをやっている人たちがいるんでね。
19:51そういう人たちを、ある意味ネットワーク化して、情報を集積しようと。
19:59それまでの薬品会は、江戸近郊の産物だけを集めた小規模なものでしたが、
20:06玄内は、全国から未知なる産物を集めた大規模な薬品会を開き、
20:13医師や本造学者以外にも門戸を開くことにしたのです。
20:19それによって使える資源があれば、それを使って、
20:25学校から輸入しているものと同じようなものを国産自前で作れば、日本は豊かになる。
20:32国益のためにも成功させねば、使命感に駆られた玄内は、2つの新しい手法を取り入れました。
20:47まず、自分の名前を載せた最良のチラシを、全国の本造学者や愛好家たちに配布し、
20:55広く出品者を募りました。
21:04さらに、全国25カ所に取り継ぎ所を設け、江戸に着払いで品物を送ってもらえるよう依頼し、
21:13売れ残った品も、後で必ず送り返すことを約束しました。
21:20こうして、これまでにない大きな商談の場を作り、各地の薬品論屋の賛同を得ることで、
21:28極めて低予算での開催を実現させました。
21:35従来のおよそ2倍に当たる1300種以上の産物を集めたこの薬品会は、
21:42後に日本初の博覧会と言われるほどの大成功を収めました。
21:52さらに、玄内は、薬効のある動植物360種について解説する図録を刊行し、
22:00学者としての業績も上げますしかしどこにも主観していない玄内はそれだけでは生活が成り立ちませんそこで後に下作と呼ばれる読み物や浄瑠璃の作家業を始めます
22:20本人としてはあくまでも余儀というか、趣味の延長みたいなもんでね。
22:28でもまあこれも才能があふれているので、面白いものができてしまうという。
22:35他にも歯磨き粉を宣伝するための歌、今で言うCMソングの作詞作曲、
22:43万歩系や温度系の制作など幅広い分野で才能を発揮し、秘銭を稼いでいました。
22:53玄内は本蔵学者として大成したいという夢と日々暮らしていかねばならないという現実とのはざまで泣き続けていたのです。
23:05ネットもメールも電話もない時代に、あんな全国規模のイベントを成功させたというのはすごい人だったんですね。
23:15いや、本当にこの平賀玄内というのはね、アイデアマンというふうにとどまらない。
23:20そういう天才的なですね、そういった事業の計画とか、そういったものができてくる、できる、そういう人だったと思うんですよね。
23:27そうですね。玄内は辞職した後、江戸に戻って、薬品会を開催したということで、これが面白いですよね。
23:35いや、面白いですよね。その狙いはどこにあったのかということですよね。
23:40これ実は玄内というのは、高価な輸入品、当時、朝鮮人参なんか典型例ですけど、それが日本に入ってきて、その代わり、そうなってくると、支払いというのは国内の金銀でしてたんで、金銀がどんどんどんどん海外に流出してしまうんですよね。
23:56ですから、それをなんとか国産品で代用できないかという発想なんです。
24:01これは、現代の師匠でもある、朝鮮人参加と呼ばれている田村蘭水がずっと考えてきたことなんですよね。
24:09これだけ本造学者として仕事に没頭していたんだろうなという反面、作家業も始めるじゃないですか。これはなぜなんでしょうか。
24:20当然、ここには公明心と資金調達というその2面があったと思うんですよね。
24:25現代はとにかく名前を挙げたいという、そういう自己顕示力も強かったんですけど、次なる研究の資金集めもしなきゃいけないということで、現代は天竺浪人というペンネームで下作を書きましてね。
24:39その中で、値なし草というのが大ベストセラーになりましてね。
24:43これ3000分を売れたというふうに現代が自称しているんですよ。
24:47ただですね、当時ですから印税なんて制度ないですよね。
24:51ですから自分の懐に入るのはですね、その反元からもらう最初の霊金だけですよね。
24:58そうか、当時の作家さんってそうだったんですね。
25:01そういうことなんですよ。
25:02でも現代は他にもいろいろな仕事をしてましたよね。
25:05いや、してますよね。
25:07先ほどVの中でもありました通り浄瑠璃の作者ですよね。
25:11これが非常に現代の名を高めたわけなんですけど、また当時引き札というふうに呼ばれていたんですけど、宣伝文句の作者、いわゆるコピーライターですね。
25:21これもやってましてね。またですね、面白いのは西洋画の画家もやってたんですよ。
25:27ただもうね、すごい才能があったんだということは伝わってくるんですけど、若干集中力がないというか、なんか筋が通っていないような気もしてしまうんですよね。
25:38そうですね。手をつけては飽きてしまうというのが現代なんですよね。
25:43この傾向はですね、年を重ねるに従い顕著になっていくと。
25:48おそらく才能の枯渇とですね、経済的な困窮、その追いかけっこになってたんじゃないかなということで、さまざまなものに手を出しては、飽きては手を引くということを繰り返していってしまうんですね。
26:01やりたいこととは別のところで評価されることは結構あるので、目標にこだわりすぎるのは良くないかもしれませんね。
26:11でも、手を広げすぎるのも考えものですよ。
26:16自分の知識を国のために生かしたい。その思いから現代は一大事業に取り組みます。
26:23しかしいくつもの挫折を経験し、人生最大の過ちを犯してしまいます。
26:29敗北までのカウントダウンが始まります。
26:331766年、39歳の玄内は、当時廃坑になっていた秩父の金山に目をつけ、鉱山開発に着手しました。
26:48しかし、玄内の目論みとは裏腹に、わずかな量しか採掘できず、事業化することはできませんでした。
26:59玄内が登場する大河ドラマで、時代交渉を務める山村さんは、失敗の原因をこう話します。
27:09本当に事業を成功させるには、もっと綿密な計画ってね、やっぱり本当は必要だったんですね。
27:16見切り発射で始めてしまったということはね、あったと思います。
27:211770年、43歳の玄内は、植産工業を推進する、時の老中田沼沖継の受力を受けて、18年ぶりに長崎に誘惑する機会を得ました。
27:40この時、壊れていたエレキテルに興味を抱き、持ち帰ります。また、陶芸の技を習得し、独自に発展させた製法を、故郷高松に伝えました。
27:59源内焼きです明らかにですね、西洋の海外輸出向けのものを狙って作っているみたいですね。その狙いとは陶器工夫症とかいろんなことに出てくる、御国営県のためっていう表現がありますので、やはり人のため、国のためだったんじゃないかなと思います。
28:23遊学から戻った源内は再び秩父の山に入りました金では失敗しましたが鉄なら行けると踏んだのですところが上質な鉄を生成する技術が伴わず断念せざるを得ませんでした。
28:50しかし転んでもただでは起きません今度は豊かな森林に目をつけ鉄を運ぶために整備した道や川を利用し秩父で作った木炭を江戸に運搬する事業を始めたのです次から過ぎるとアイデアが浮かぶんであんまり反省してる暇もないようなタイプの人だったんじゃないですかね。
29:17人が目をつけないようなとこにね目をつけて新しい商売を始めるっていうようなことをできる人だったんで。
29:26この事業は軌道に乗りかかりましたが出資した問屋の取り分が多いことを知ると源内はあっさりと事業から撤退してしまいます。
29:41肝心の源内がねこれ意外とねケロッとしてるんですねうんそういうこともあるよということでケロッとしているので鉱山事業に関わっていた者たちはもちろん源内に対するねそういう信頼度はねこれは下がっていきますね。そして源内をもてはやしていた周囲の目も徐々に変わっていくのです。
30:08源内は持ち前のアイデアを生かしいくつもの事業に取り組むも成功を収めることができません。
30:20すると次第にうさん臭い奴、大風呂式などの悪評が立ち始めました。
30:29源内は周囲の信頼を失いながらもさほど意に介さずあることに情熱を傾けていました。
30:42長崎で手に入れた壊れたエレキテルの復元です。
30:49そしておよそ7年もの試行錯誤を繰り返し見事に復元したのです。
30:56見たこともないような機械をね何の説明もなく知識もなく復元するっていうのは大変な作業だったと思います。しかし電気という概念がまだない時代肝心の使い道が分かりません。そこで源内はエレキテルを見せ物にし生活費を稼ぎます。
31:20人々はこう並んで手をつなぐんですよ。一番端の人にね電気をピリッと取るとねピリピリピリッとね端の人まで電気がね当たると。
31:33人々はねそういう電気というものを知らないわけですからびっくりしますよね。
31:38これも魔法の機械だと思うんだよね。しばらくの間はこれで儲かった。
31:44これでまた本造学に専念できる。
31:49そんな中ある事件が起きます。
31:53源内と同じ長屋に住む職人がエレキテルの劣悪な模造品を作って売り6両もの金をせしめたのです。
32:04源内は自分が苦心の末に復元したものを形だけ真似されて怒りを爆発させました。
32:16やることなすことうまくいかず次第に陰にこもっていった源内は自称気味にこんな句を読みました。
32:27こうならず名ばかり遂げて年暮れに。
32:36かつての名声が地に落ちてしまった源内の評判が回復する兆しはなく、自らが描いた作品も当たりません。
32:48一方で弟子が手掛けた浄瑠璃が人気を博していたことが気に入らず、そのいら立ちを周囲にぶつけるようになりました。
33:00やっぱり時代の変化みたいなものにうまく対応できなかったりねいろいろ思うようにいかないようなことが出てきて揺れ出すことも多くなったみたいですね。
33:13楽天的な性格も影を潜め、源内は知人にも不信感を抱くようになったといいます。
33:24そして、凄惨な大事件を起こすのです。
33:34ある夜、源内は自宅で知人と酒を組み交わしていました。
33:42そして酔いが進むと、ある雪違いから口論に。
33:48頭に血が昇った源内は刀に手をかけ、人を殺めてしまったのです。
33:57源内、乱心の敗北です。
34:00黙ってたと思いますね、それがポンと。
34:04弾けちゃったというかね、線が抜けちゃったところはあると思いますけどね。
34:09自分の事業ややることが、やっぱりうまくいかなくなっていた。
34:16さすがの源内も気分が落ち込んでいた。
34:20そんな時期だったからこの事件も起こした。
34:23その後、冷静さを取り戻した源内は、自ら町奉行所に出頭しました。
34:31そして投獄されてしまうのです。
34:36こうならず名ばっかり遂げて年暮れぬという歌がすごく印象的で結構自分のことを冷静に見ていた部分もあったんだなという感じですね。
34:48認められたいという気持ちと国益という大義これは現代どちらが本音だったと思われますか?
34:55これはまた難しいとこですけどね。
34:58ここで歴史作家ならではの視点で歴史の裏側を考察する伊藤潤の見解ポイント。
35:07人というのは利己だけではなかなか動けないんですよ。
35:10何かをやろうとしても続かないんですよね。
35:13事業にリターの要素があれば、人というのは不思議に粘り強く取り組むことができるんですよね。
35:19現代はそれを体験から得して常に国益重視ということを唱えることで、自分を奮い立たせたんじゃないかな。
35:27現代のアントレプネーナー、つまり企業家も同じなんですよね。
35:31個人の金銭的な欲得だけで動く人には誰もついてこない。
35:36ところが、リターの要素のある事業だと、周囲も協力してくれるし、自分のモチベーションも保てるということで、それは非常に重要なことなんですよね。
35:45なるほど。
35:46そしてね、最後は殺人まで犯してしまったと、本当に衝撃的ですけれども、この事件の詳細ってわかっているんですか?
35:55事実としてなかなかわかっていないと言われているんですけど、
35:59木村木朗の木くままの木にはこう書かれているんですね。
36:03現代に斬られたのは、某大名家の庭の不信を請け負った町人だったということで、実はですね、この大名家の庭を巡って、現代と町人がコンペティション、いわゆるお互い見積もりとか提案書を出して競合したわけなんですよね。
36:18その時に中に仲裁というか仲介に入った役人がですね、うまく調整して共同行きようにしたんですよ。
36:24両方ともハッピーじゃないですか。
36:26ウィンウィンじゃないですか。
36:28ですから役人も交えて主演になったんですね。
36:30役人の方はですね、忙しいのか何か先に失礼しちゃったんですけど、現代とその町人というのを飲み明かして、2人とも冷水して寝てしまったんですね。
36:42それで現代はですね、朝起きたらですね、自分の書いた非常にユニークな提案書というか図面がですね、なくなっているということで、町人にお前盗んだろうということで責めたら、こんなことはしてないですよという町人が言ったわけですね。
36:57そこでまあご諮問答があって、現代はですね、その町人を切ってしまうんですね。
37:02で、後で調べてみたら、自分の手文庫というね、書類入れみたいな中にその図面があったんです。
37:08本当に現代というのは本当になりたい自分になれなかったというそういうストレスをそれがずっとですねやはり精神的にですね自分へのプレッシャーというかそういったものになってきて日々深咲に溺れるようになっていったと思うんですよね。
37:27なかなか思うようにいかなくても捨て鉢になってはいけません。
37:32酒に逃げたい気持ちも分かりますが、ほどほどにしてくださいね。
37:36取り返しのつかない罪を犯した現代はその後どうなったのでしょうか。
37:42波乱万丈の生涯を送った現代の生き方、常人にはない魅力を見つめます。
37:49人を殺め、盗獄された現代はおよそ1ヶ月後、破傷風を患いそのまま獄中で亡くなりました。
38:04東京台東区の一角に、現代の墓が残されています。
38:11現代の葬儀を取り仕切った難学者で医師の杉田玄伯は、非常という言葉を多用し、亡き友への思いをつづりました。
38:25ああなんと変わった人よ好みも行いも常識を超えていたどうして死にようまで非常だったのかその自由人がじゃあどうやって飯食って何か自分の才能を発揮していくかっていうとやっぱり制約が大きいんですよねその中で彼らも自分の才能だけを信じて駆け抜けたという。
38:52杉田玄伯が母姫に書いたように波の人ではないっていう。
38:58好奇心の赤くままに行動し幅広い分野で才能を発揮しながら自らが望んだ本造学者としての名声は得ることができなかった平賀玄内。その数奇な生涯を振り返り、改めて感じる魅力とは。
39:22何があってもめげずに次の方向を探していく。
39:28失敗を恐れるなっていう言葉があると思いますけども。
39:32玄内も同じように失敗をしても何かの分でカバーしていく。
39:38いや同じものでカバーするかっていうとそうじゃなしに方向を変えていくっていう。
39:44そういうところは非常に魅力があるのかなと思ったりはしています。
39:48晩年、玄内は自らの心情を綴っています。
39:54われはただ及ばずながら日本の益をなさんことを思うのに。
40:02日本の豊かな自然と風土を生かし新たな技術と産業によって国を飛ばせたいとその思いのもとに行動し続けた玄内は江戸に行きながら極めて近代的な思考を巡らせていたのかもしれません。
40:24自分の理想とする自分になれなかったのかもしれないですけれどもただその才能を持っていながらすごく謙虚な部分もあるじゃないですか本当面白いですよねそうですねだからこう自分をすごく客観的に見て私はそこまでのことはなせなかったみたいなことを自覚しているところも含めて何かとてもこう人間らしい魅力的な人だなと感じますね。
40:49おそらく自分自身というものはよく捉えてたと思うんですよね。
40:54玄内の江戸に出て間もないこの解体新書で有名な杉田玄白に出会っていますけれどもこの2人は本当に深い信仰があったみたいですね。
41:02玄白というのは解体新書で知られているように地道に努力できる人物なんですよ。そんな人物が玄内に一目を置いていたということはやはり玄内に光るものがあったということですよね。
41:13間違いないですよね。その玄白は玄内のことを非常の人と表現したということですけれどもこれはどんな意味だと思われますか。
41:23今非常という用語は様々な使われ方をしてますよね。ただ語源としてはですね常にあらざるという意味なんですよね。
41:31その一言にですね玄内という人間のすべてが凝縮されているように私は感じるんですよね。
41:37この非常の人という言葉は手放しで玄内を褒めたたいているわけではないんですよ。
41:43非常という言葉で長所も短所も常の人とは違うということを玄白が言いたかったんじゃないかなと私は思うんですよね。
41:50でも逆にその時代が食産工業を推進していたという背景があったからこういう時代だったからこそある意味玄内のような人が輝く場があったのかなという気もしますね。
42:02まさにその通りなんですよね。
42:04食産工業というものがこの時代ぐらいから叫ばれるようになってきて幕末近い頃に藩主として島津成明や鍋島間奏といった大名がですね食産工業というのに力を入れ始めますよね。
42:16それが明治維新になってその後大隈重延や渋沢栄一によってですねその食産工業が本格的に動き始めるということで
42:27彼らに共通しているのは異常なまでの執念で仕事に取り組んでいるということなんですよね。
42:32そこが残念ながら玄内のような移り気な人と根本的に違う点なんですよね。
42:38なるほどなんかその時代フィットしている才能ではあったけれども才能だけではダメだということですね。
42:46さあ改めて平賀玄内の敗北から私たちが学ぶべき人生の教訓をお願いします。
42:52はい。自らの本文を逸脱するなですね。
42:57現代には本造学という専門分野があったわけなんですよね。
43:01その本造学を十分に生かすことなく様々なことに手を出していったわけなんですよね。
43:07それがねやはり本造学を応用した分野の授業であればわかるんですよ。
43:11本造学から逸脱してしまったということで本造学という本文もいつの間にか失っていったわけですよね。
43:18おそらく玄内はですね自分の才能を過大評価してたと思うんですよ。
43:23ただその後そうした過大評価が本造学から離れていってしまったという原因だと思うんですよね。
43:30好奇心が旺盛でマルチな人間は器用貧乏になりがち。
43:35自分の本文を見極め専念した方が大成するのかもしれませんね。
43:41これぞ平賀玄内の敗北から学ぶ教訓です。
43:46歴史上の偉人というと戦国時代とか幕末とか政治家とか武将がイメージされますけどもこういう文化人にも面白い人が本当にたくさんいますよね。
44:03いやユニークですよね。特にこの玄内はユニークだからこそこれだけ名前が残ったんじゃないかと。
44:09例えば自責家で言えばね友達の杉田玄白の方が立派なことを残してるわけですよ。
44:14確かにこれだっていうのがありますよね。
44:17代表的なものが。
44:18ただ人気からしたら全然玄内の方が上ですよね。
44:20確かにキャラクターとしても魅力的な感じはうかがえるんですけれども特に江戸時代っていう時代背景みたいなところで言うと津田や十三郎もそうですけれどもああいう才能を持った人がたくさん出てきた時代だということで他の江戸時代で活躍した人物ももっと見ていきたいなと。
44:40もうたくさんいるんでね。
44:41面白い人までやりたいですよね。
44:42はい。
44:43伊藤さんありがとうございました。
44:44ありがとうございました。
44:45ありがとうございました。
44:47偉人敗北からの教訓。それではまた次回お会いしましょう。