• 6 months ago
6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄には、今からちょうど80年前に大本営直轄の第32軍が配備され、その後の地上戦に突入していきました。軍の存在は、どう沖縄の社会を変え、人々を戦争に導いていったのか。沖縄のいわゆる「戦前」から80年後の「今」を考えます。

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00:00それは火災から5年
00:08再来年の完成を目指し再建が進む 首里城の地下にある
00:1580年前に築かれた第32軍司令部号 今保存公開に向けた動きが注目されている
00:27その構造を国名に記したアメリカ軍の調査報告書がある インテリジェンスモノグラフだ
00:38中村誠さんがそのオリジナルを入手した 沖縄で得た情報を今後の日本本土攻略作戦のための情報としてこれをまとめたん
00:54沖縄戦をどう戦ったのかを総括し 報酬した資料をもとに日本軍の軍備をまとめている
01:03捕虜への尋問から日本軍のモラル指揮について 国のために死ぬという精神を忘れないよう促されていたとする一方で
01:15多くは沖縄で敗北し日本は負けると結論づけていると指摘した さらに司令部号を丸裸に
01:271945年5月29日に手裏城を占領するとアメリカ軍はすぐさま中に入り調査を始めた
01:40それは今に続く調査の拠り所になっている この地下壕で決められた作戦が兵士よりも住民の犠牲が上回る
01:52重大な結果を引き起こした
01:57第32軍が創設されたのは沖縄戦海戦の1年前 1944年3月22日のことだ
02:09その後実際の配備が始まると一気に沖縄は日本軍の色に染まっていった
02:19瀬那覇栄一さんが入学したばかりの県立農林学校にも突然日本軍が入ってきた 今も立つ校門には無数の断根が残る
02:36司令部になったんです ですから彼らが入っていくや否や
02:43まあすっかり学校生活が変わりましてね われわれは寮を追いやられました
02:52校舎をすべて 軍が接種をしまして
02:57でこの校門のこちらですね
03:03こちらの方には 兵隊が2人立っておりましてね
03:07いえいえいと言うんですよ 銃を持ってですね
03:11待ち構えてるんですよで出会いができなくなった もう軍一色ですね
03:18その価値観に染め上げられた 先人君というのがあったんですよ
03:25恥を知る者は強い人 生きて露呻の恥ずかしめを受けず
03:31死して財下の汚名を残すことをなかれと 心に染み込んでしまうまで叩き込まれたと
03:42自ら叩き込んだんですね そして飛行場建設に借り出される
03:50後にアメリカ軍カデナ基地となる中飛行場だ
03:57この地帯は
04:02農村地帯でですね 大豆とか
04:06サトウキビとか芋とか そういったものが
04:11の生産地だったんですね 岩山をですね
04:17壊しましてね そしてそれを
04:21叩き割って 砕いて
04:25それから滑走路の方にばらまくるんですよ さらに今世界遺産となった
04:32酒見城で陣地の構築に加わった 空をついてそびえている松の木を
04:41一本一本 投げ倒しました
04:45それが終わりますと情益を破壊する 校舎砲の砲台を作るんですよ
04:53生活も文化も破壊され 沖縄の風景は変わっていくばかりだった
05:0232軍が当初司令部をいたこの場所の近くに 小永靖子さんの自宅はあった
05:11当時15歳 自宅周辺に日本兵の姿が日に日に増えていった
05:20朝6時になったらラッパの音が聞こえたから 兵隊さんが行進するんだと
05:26兵隊さんの行動が見えてきたんですね 射的上に行く
05:33ある日軍は軍場を管理する32軍の従委を自宅に寝泊まりさせ 医薬品も保管するよう求めてきた
05:44いいですよ役に立つのでどうぞお使いくださいと言って 簡単に父はびっくりして
05:53なんで兵隊さん 兵舎でもないのにここに寝るのと
05:57沖縄戦犠急者の石原名誉教授は2人の体験が表しているのは 日本軍による沖縄全島の軍事要塞下だったと語る
06:1032軍が上陸した時にはこのいわゆるこの 弊社とかそんなのを全部準備はできてなかったもんだから
06:19民家に軍隊が同居するという形を取るわけですね 民家だけじゃなくてもいわゆる公民館学校ですね
06:27全部この 軍事要塞化していくという形でもう要するに戦場の村化していくわけですね
06:36その過程で着任したのが司令官牛島光である 沖縄戦犯氏の7ヶ月前牛島はすべての兵団長にこう訓示した
06:52現地物資を活用し一木一草といえどもこれを戦力化すべし
07:01地方官民をして喜んで軍の作戦に寄与し 進んで共同を防衛するごとく指導すべし
07:12さらに極秘の因が押された県民指導要項に示した大方針が 軍官民共生共死の一体化
07:27それからの新聞には軍官民一体の文字が目立っていく 徐々に軍と運命を共にする空気は醸成され確実に県民の中にすり込まれていった
07:44さなはさんは4カレン海軍飛行4カレン修正に進んだともに憧れた
07:53わーかーいちーしおーの4カレンのーというね
08:02なーなーつーぼーたーんはさくらといいかーでいいという
08:11この歌を歌ってさあ憧れの4カレンへと手を挙げたのがね 羨ましくてしようがなかったんですよ
08:23さらに当時の空気を語る 戦車が出た時どうなる
08:31これも大きな戦意向上に 貢献していると思うんですよね
08:38沖縄戦前は 戦車が出ると損そうですよ
08:44ああいうふうに死にたいなぁという気持ちを持たせるんですよ若い連中に これほど名誉なことはありませんと
08:53全部がそういうふうに そういうモードに浸っているんですね
09:00一方で尾長さんの一家は葛藤をしていた 舞台にいる兄から出世を知らせる手紙が届いた時のことだ
09:10行き先は書かれていなかった 父親がそれが書けるもんか
09:16しょうがないよもうそこまで行ったからにはねもう国のために働くしかないさと
09:23こう言った時に母親はこれを聞いて泣いてましたよ どこに行くかもわからないここまで育てたのは誰かって言いたいさと
09:34母親が言ったんですよ これ本音だなぁと私は思ったんですけど言えないですよね
09:42母はかわいそうだなぁと思いました 本音を吐いたなぁと思ったんですけれども
09:48なんか悲しいけれどもその思いが口に出せない という
09:5419年になってから思いでしたね その年の暮れ司令部は尾長さんの自宅近くからこの小高い丘に構築した号に移動していたが
10:08より強固な号を求め 手裏城の地下に移っていった
10:15そのすぐ近く手裏高校の前身 県立第一中学に通っていた与座昌健さんも軍に学校を追い出され
10:25陣地構築の日々を送った 水上というのは
10:33沖縄の 施設ですからあんなところにね
10:38リクーン シェイブゴルフにいかんというような気持ちが
10:43なんとなくあるんだけれども 戦争だからねー
10:49誰もなんと言うこともないし 気がついてら
10:57戦争は惨めだよね 卒業まで1年を残し強制的に繰り上げ卒業
11:07鉄血勤納隊に組み込まれ 家族に最後の別れを告げてくるよう命じられた
11:15一晩か二晩追って スリーに戻るとき
11:21あの時の 悲しい思いというのはもう忘れ忘れられない
11:27僕の一生はこれで終わりだったんだなぁと思いながらさ トボトボトボトボ
11:33一人で 帰って帰っていったことを
11:38を忘れません
11:42数日後アメリカ軍が沖縄本島に上陸 その新軍の目的地首里城では司令部号の構築がなお続いていた
11:56その作業に動員された義馬明雄さん 中の号を掘って
12:04掘ったのはあれは兵隊が掘っとったのかな 俺は掘り出した筒状をトロッコに積んで
12:12こうしてね 入口からちょっと横の方にちょっといたところに全部こぼしてね
12:20今軍のありように抱いた疑問を思い出す 地下に潜ってばかり落とすからね
12:28地面の中にお前と暮らしておってねどうしてで戦争ができるかねぇ しっかりした
12:35強い軍隊とは考えてませんでしたね あれも意味ないですよ
12:42そこに土があるから運び出すという感じでね 撤退するその日までやってるんだから
12:50何も考えも計画もあったもんじゃないと思うんですよ
12:55かつての琉球王国の象徴首里城 日本軍がその地下に額頭を動員して気づいた
13:04司令部号は5つの口口と口頭が作られた
13:10全長はおよそ1キロ 深さはおよそ30メートルに及ぶ
13:19通路があって 中から真ん中から線路が通って両方に大きな部屋みたいなやつがあちこちあって
13:29そこにいろいろ集まりをやって会議したり してるしね
13:36そんな司令部号など戦績をめぐるフィールドワークが行われた 中村さんはここに垂直に掘られた入り口があったと解説した
13:49こっから最初にですね米軍が第32軍司令部号の中に入ったと 中枢部はちょうど皆さんが立っているこの下あたり
14:00この穴からアメリカ軍は30メートル地下の中枢部に降りていった
14:09そのエリアにつながる行動に先月カメラが入った かなり水が溜まり足場は悪い
14:19壁や天井には掘り進めたツルハシの後 鉱木も3本確認できる
14:28ビング残されていたビール瓶は大日本ブルーアリーとあった
14:38軍と住民の関係を象徴するとも言える場所がある 第5港口だ
14:45牛島が訓示の最後に掲げた 傍聴に厳に注意すべし
14:54陣地の構築などに動員してきた住民に軍事機密を知られることへの警戒心からだった その後のこの沖縄県民総スパイし住民虐殺あるいは間接的に住民を集団ししていくね
15:11そういう流れが牛島軍司令官によって作られたというふうに断言していいと思いますね それがよく行われていたという場所が
15:22この第5港口付近だ 豪に出入りしていた遠目春子さんの主旗にスパイ容疑がかかった女性が虐殺される場面が
15:34記されている
15:38繊維紅葉のためといって一人一人交代で銃剣で刺せということになって 貸し館の次々という合図で
15:50えいえいと気合を込めて指す 歯が上がといって身をひねる姿
15:57顔は見えないがうずくまる様子は手に取るように見える 次第に自分の順番が迫ってくる
16:06どうしてもその気になれないでいる 絶対絶命位を決し
16:12きびすを返したら一目散にその場から逃避して豪内に逃げ帰った
16:20本土決戦を送らせる時間稼ぎのために32軍は手裏での決戦を避け南部へ撤退を決める その際脱出したのもこの第5港口だ
16:35南部には多くの住民が避難していた 軍民困在となった戦場で住民の犠牲は軍人を上回った
16:48からね 尾長さんは南部で見た惨状を忘れない
16:55なぜ釣りでね ここで負けたんだったら負けましたで降参すればね
17:02あの人たちを殺さんでも済んだのになぁともう本当に 殺された人たちがどんな思いで死んだんだろうなぁ
17:11あそこまで生きよう生きようと思って逃げたにも関わらず 無残に殺されたそしていこそあのザラシになった
17:21沖縄の運命が決められた場所それが第32軍司令部号だと セナハさんは言う
17:30今司令部号を保存公開する活動の先頭に立つ 人間としては当然ある間敷き
17:41ことが堂々と行われていた その人間性が失われておった
17:48銃声を持って獣に獣のシーン性質をね持っておった それに変わってとって変わっていたと
17:57ですから あの
18:00人間性回復のための号にしたいと
18:06沖縄戦が始まる直前新聞の見出しには 南西諸島の文字
18:13射説は敵外心を煽った そして今南西諸島には自衛隊の配備が急速に進む
18:26全国民がいつでも 日本国の平和を脅くす国家に対しては
18:33一戦を交える覚悟が今 問われているのではないでしょうか
18:41夜名国島ではおととしアメリカとの共同訓練に絡む 先頭車が行動を走った
18:49石垣島や宮古島と同じようにミサイル部隊の配備が計画され 新たな土地の取得そして有事の際に自衛隊などが使用することを前提とした
19:02空港滑走路の延長や港湾の整備計画が進む
19:10アメリカのエマニエル駐日大使も訪問し日米同盟をアピール そして政府は今月
19:19台湾有事を念頭に先島諸島の住民を九州各県と山口県へ避難させる計画を九州地方 知事会に提示した
19:3380年前を体験した人々は80年後の風景に何を見るのだろうか 沖縄戦前夜そのものだというふうに思うんですよ
19:46民間への飛行場を 使えるようにするとか
19:52あるいは民の土地を自由に使えるようにするとか そういうやり方も
19:59戦争直前そのものですよ 戦争するときはですね
20:04みんないいこと言うんですよ東洋平和のためならばとなったらね 誰が反対しますか
20:13それはもう能と言えない状態に追い込んでしまうんですよ 始まったら絶対止まりません
20:21こっちが一発打ったら家から8発帰るこれ本音なんですよ こんなの見てるもんだから
20:27絶対に戦争は始まったら もう
20:32収まらないと まるでバカげて言って早期の沙汰と思い
20:39戦争の 愚かさ馬鹿げ馬鹿さ加減というか
20:45僕ら経験したからわかるんでしょうね そうでなければわからないかね
20:52初夏でもある義馬さんは 自らが記したメッセージを街頭で掲げる
21:00沖縄の方言で ぴったりこう
21:05そこに合うのはこういう言葉だと思っていて 基地はよく知らくないために基地を作る
21:13沖縄の方言ではよく知ってた ゆくしと
21:16嘘だよ
21:20石原教授が最も印象深かったという証言者がいる 又吉英調さん
21:281989年5月に聞き取った声だ
21:33昭和の初め 班長室に呼ばれ いろいろな指示を受けておる時 小さな本に目が留まりました
21:41大きな事例 もし日米戦わばと書かれてある本でした 日本の軍隊は米国とも戦争をするぐらいの強い軍隊のなぁ
21:52帝国軍人の一員として自分も偉くなったような いい気持ちになっておりました
21:59それから13年後 日米戦争が始まったのです
22:0513年前のあの小さな本が私の頭に浮かんできました 戦争はずっと以前に平和の時から計画されているものだなぁと感じました
22:19実は沖縄戦の31年前 ある軍事演習が行われていた
22:261914年1月の新聞が報じているのは まるで沖縄戦を想定していたかのようなシナリオだ
22:36仮想敵が手裏の軍事霊部を目指して進軍し それを学生隊の力を借りて迎撃していた
22:48平和な時に戦争は準備される
22:54それを裏付けたのが沖縄戦だった
23:01取材した佐古記者ですお願いします 取材を通して何を感じましたか
23:05あの今起きていることを全部つなげてみた時に80年前を知る人々にとってはやはり 戦争準備の景色に移るんですよね
23:13すべてが戦争前提の議論 ここに違和感を拭うことができないなというふうに思います
23:18南西諸島防衛という言葉は昔も今もずっとありますけれども 軍隊は住民を守らないというのが沖縄戦の最大の教訓ですから
23:25守るというのは一体どういうことなのか それを改めて考える気がしますね
23:29複数の方が物を言えない空気ということをおっしゃっていましたけれども 今再びそうした空気が覆っていないかって考えてしまいました
23:36そうですよね いつの間にか台湾有事は日本有事というふうに言われて なぜそうなのかその説明が尽くされたとは言えないですよね
23:45このままでは軍閣の奥州すら恐れるわけですけれども 遠い場所の戦争に刺激される様というのはやはり昔も同じで
23:52ご覧いただいた軍事演習 1914年というのは第一次世界大戦が起きた頃のことですよね
23:58そこから戦争準備が進んだということを考えれば 80年前の世界というのは決して昔話ではなくて
24:04証言者の話には今が見える気がします ですから戦争するときはみんないいことを言って
24:10ノーと言えない状態に追い込むという言葉はそのまま今を通っているような そういうふうに思いますね
24:15以上特集でした

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